あまりに苦しい記憶…封印してきた男性、初めて東京大空襲語る

西日本新聞 筑豊版 丸田 みずほ

【語る、継ぐ 戦後75年の記憶】(上)

 戦時中の体験を周囲に一度も話したことがなかった福岡県嘉麻市の木村一守さん(89)は昨年8月、同市の碓井平和祈念館で開かれたイベント「語り伝える 戦争の話」に参加し、少年時代に受けた空襲や疎開の記憶などについて初めて語った。「同世代はほとんど亡くなった。残された私が力になれるなら」-。

 きっかけは5年ほど前。父が使用していたトランクケースを同館に寄贈する際、戦争体験談の聞き取り活動を行っている同館学芸員の青山英子さん(62)と出会ったことだった。青山さんは、寄贈品の時代背景を聞くうちに木村さん自身も大変な体験をしたと知り、いつか登壇を依頼しようと決めていた。

 木村さんは1930年、東京生まれ。太平洋戦争の時はまだ14歳。空から落ちてくる焼夷弾は線香花火のようできれいなのに、落ちた途端ゴーッと燃え広がった。爆弾は台風並みの風が吹き、鼓膜が破れたり目が飛び出したりしないよう、必死に手で押さえた。

 東京大空襲の45年3月。木村さん自身は被害を免れたものの、おじの家を見に行くと、天井が吹き飛ばされていた。戦火はみるみる激しくなり、島根県出雲市に疎開することに。駅までの道のりは一面焼け野原で、出雲に向かう途中の汽車でも空襲に遭った。「とにかく逃げ惑っていた。よく命があったものだ」。学校の配属将校からは「命は戦争に行く20歳まで」と言われ、「死ぬのは当たり前」と次第に恐怖心をなくしていった。終戦を知った日は「日本が負けるわけがない」と受け入れられなかったという。

 中学校の記念誌の寄稿では、多くが戦時中の体験について触れる中、木村さんは自身の体験を一切書かなかった。自分や家族が犠牲になることはなかったが、10代の少年にとってはあまりに苦しい記憶だったからだ。青山さんからの依頼も「わざわざ思い出したくもない」と断った。

 それでも青山さんは繰り返し自宅を訪れ、聞き取りを行った。「そのお話、もっと多くの人の前で話してもらえませんか」。そう訴え続ける青山さんの姿に、次第に心が動かされ、出演を決めた。「熱い思いに負けた。一度だけなら」

 2カ月後、木村さんは自治会の敬老会に青山さんを招き、イベントを紹介する時間を設けた。8年前から毎年開かれているものの、まだ知らない人が多いこと、語り部が減っていること。何より、青山さんの活動を広く知ってもらいたいと考えたからだ。自分が当事者として参加したことも明かした。

 「一度だけと言ったはずの木村さんに、何らかの心境の変化があったのだろう」。青山さんは推測する。その後、別の体験者を紹介してくれたこともあり、「後世に伝えるべきだ」という思いが人から人につながっていくことを実感した。

 「体験せんと本当の苦しさは分からんだろうけど、若い人には二度と戦争をしてほしくないからね」。木村さんは、戦後75年を前に、改めてそう語った。 (丸田みずほ)

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 今年で戦後75年を迎える。戦時中を生き抜いた人が減る中、体験者や次の世代に語り継ごうと活動する人に今の思いを聞いた。

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