わずか22年の生涯…救護看護師の姉、たどった最期

西日本新聞 長崎・佐世保版 平山 成美

 長崎市虹が丘町の井手栄三さん(78)は、看護師だった姉の八重子さんが亡くなった場所を没後73年の今年初めて知った。そこは戦後、引き揚げ港があった佐世保市浦頭(うらがしら)。姉はどのような所で22年の短い生涯を閉じたのか。この夏、何度も現地を訪ね、当時を知る地元の人に会い、足跡をたどった。

 浦頭の港では1945年から50年にかけて、軍人と民間人を合わせ約139万人が帰国した。一方で、栄養失調やさまざまな病気により、上陸前や上陸後に亡くなる人が相次いだ。コレラやチフスの感染が広がった引き揚げ船もあった。

 井手さんが日本赤十字社長崎県支部から得た職務経歴によると、八重子さんは救護看護師として、45年12月に浦頭の臨時救護所、46年1月に厚生省佐世保引揚援護局検疫所の病舎に派遣された。引き揚げ者の救護や入院患者の看護、在外救護班の消息に関する情報収集に従事し、47年1月に亡くなった。死因は腸チフスだった。

 井手さんは16歳離れた八重子さんの記憶がほとんどない。他界した両親から姉の話を聞いたこともあまりなかったが、訃報を受けた母親が悲しんでいた姿は覚えている。

 最近、ふと八重子さんのことを考えるようになり、日赤に依頼して職務経歴を調べ、約30枚の写真を1冊のアルバムに整理した。

 初めて浦頭を訪ねたのは7月初旬。5度目の31日には近隣で育った森川普(すすむ)さん(84)に八重子さんが働いていた頃の浦頭の様子を尋ねた。アルバムを見せると、2枚は援護局の近くの写真だと教えてくれた。現在、ハウステンボスがある場所だ。

 「姉はきちんとだびに付されたのでしょうか」

 八重子さんが火葬された場所は分かっていない。井手さんの問いに、森川さんは少年の頃に見た光景を語った。「ほとんどぼた焼き(野焼き)状態だった」。引き揚げ船の遺体や、帰国後に命尽きた人たちは海辺で火葬された。

 「ヤギ小屋のそばでふん尿を焼きながら、人の亡きがらも同じように燃やしていた。小学生だったから、幽霊が出るぞと言って怖がっていたもんです」

 森川さんは検疫所跡や引き揚げ船が入港した場所を案内し、たくさんの遺体が焼かれた場所を伝えた。井手さんはそこを静かに見つめた。

 「引き揚げ者を迎える水際での仕事は、病気のリスクが高いことを承知で姉は派遣に応じたはずです。覚悟の上だったのでしょう」

 戦後の混乱期。生と死が隣り合わせだった引き揚げ港で、八重子さんは救護看護師の仕事を全うした。晩年の足跡を胸に刻み、井手さんは姉をしのんだ。 (平山成美)

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