人間国宝の井上萬二さん 原点は軍隊生活 

厳しい訓練、陶芸修業の支え 犠牲的精神が伝統守る

 終戦から75年。1944年8月に15歳で海軍飛行予科練習生(予科練)となった井上萬二さん(91)=佐賀県有田町南山=は、終戦直後に鹿児島県内の特攻基地から帰郷。それから陶芸の世界に身を投じ、白磁の技術で人間国宝(重要無形文化財保持者)にまでなった。今も現役を続ける井上さんが自らの原点と振り返る軍隊時代や、有田の未来を託す次代の担い手たちへの思いを語った。 

 ≪窯元の四男として生まれたが家業は39年ごろに閉鎖。軍国少年だった井上さんは制服の七つボタンに憧れ、予科練に進んだ≫

 入隊したのは鹿児島海軍航空隊(鹿児島市)。七つボタンの制服は一目で分かり、女学校のそばを歩けば「予科練さん」と黄色い声を掛けられた。量は少なかったが、ご飯は白米。週に1度は必ず肉が出て、それが終戦まで続いた。

 いい話はここまで。訓練中は手旗信号やモールス信号、幾何や作文、英語までみっちり鍛えられた。シャワーは2週に1回。「バッタ」と呼ばれた海軍精神注入棒で上官から1日に何度もたたかれたから、自分も同期も尻にはいつも3、4本の青い筋が浮かんでいた。連帯責任で1人悪ければ全員が打たれる。食事抜きの日もざらにあり、責任を感じて首をつる者もいた。

 ≪結局戦地に赴くことはなく、串良航空基地で終戦を迎えた≫

 せっかく過酷な訓練に耐えて戦う用意をしていたのに、それが無駄になったという悲嘆と、故郷に帰れるという喜びが半々だった。

 戦争は良くないし、軍隊も制度は良くなかったけれど、徹底的に精神力と体力を鍛えられ、勉強させられたことが財産になった。終戦後のいくら働いても飯を食えないとき、あえて無給で5年も6年も修業できたというのは、そういう精神力で耐えることができた。

 ≪経験を元に後の世代に伝えていきたい言葉が「犠牲的精神」だ≫

 必ずしも「死ぬ」ことと同じではなく、身を粉にして働くということ。平和な世の中であっても、立場立場で義務と責任を果たすことが重要で、その上に個人の自由があると思う。

 陶芸の世界でも、先人が生み伝えてきた尊い技を受け継いだ上で、新しい陶芸をつくる必要がある。昭和の伝統の先に平成の伝統があり、令和の伝統が生まれる。自分を犠牲にして国を愛し、郷土を愛し、人を愛することで、伝統は守られていくのではないか。

 ≪有田出身の海軍連合艦隊司令長官、古賀峯一元帥(1885~1944)の顕彰にも取り組む≫

 古賀長官は海外情勢に明るく、日独伊三国同盟や対米開戦にも反対したが、在任1年で殉職した悲運の提督だった。毎年5月に石碑がある陶山神社で慰霊祭が開かれており、弟子たちに参加を呼び掛けるほか、有田工業高の吹奏楽部にも協力してもらっている。

 今の職人や若い人たちを軍人精神で鍛え、理解してもらうのは難しい。だから後ろ姿で示すしかないし、今の平和が尊い犠牲の上にあることだけは忘れられないよう訴えを続けたい。

  • 西日本新聞

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