「特攻隊養成所」が八女にあった 茶畑地帯に八角形の飛行場

西日本新聞 筑後版 丹村 智子

終戦前年に完成、戦後は農地に

 茶畑が広がる福岡県八女市内の一角に、かつて特攻隊を養成する飛行場があった。通称「岡山飛行場」は、終戦の前年に完成。一時は数百人の生徒がいたとされ、訓練後は知覧や沖縄から特攻に加わった。戦後ほどなく農地となり、数年で姿を消した飛行場。数少ない痕跡を探して、跡地を歩いた。

 飛行場があったのは、八女市龍ケ原を中心とした一帯。市中心部からほど近く、九州自動車道が南北に貫き、茶畑や工場が広がる。その一角に、高さ2メートルほどの塀と、塀を支えるように一定間隔で並ぶ三角形のブロックがあった。

 「コンクリートの質が悪く、かなり崩れていますね」。案内してくれた市文化振興課の中川寿賀子さん(60)によると、15年ほど前まで「卒業生」が訪ねてくることもあったという。当時も飛行場の変遷に詳しい近隣住民はほとんどいなかった。「機密扱いで、詳しいことは知らされなかったのでは」と推測する。

 飛行場は1944年4月に運輸通信省航空局の乗員養成所として開所した。本来は郵便機などの「民間パイロット」を養成する施設のはずだが、戦争末期で、実際は異なったようだ。当時の西日本新聞は「われら皇恩に報いるは大空に誓死あるのみ」という入所生総代のあいさつを伝える。ほぼ同時期に、飛行場には大刀洗陸軍飛行学校の筑後分教所も開設されており、陸軍の傘下に置かれていたことが想像される。

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 当初の様子を知る人を尋ねた。八女市亀甲の七字健郎さん(88)は、国民学校6年生の時に八女に移り住んだ。父・栄光さんは軍属の測量士として、飛行場建設の総監督を務めた。集落を移転させ、丘を削る大工事。「400町(約4平方キロ)を整地したと聞きます。小中学生や近隣住民が動員され、朝鮮半島からも100人ほど来ていた」。重機はブルドーザー1台のみ。ほぼ人力だけに頼ったという。

 東西南北を走る滑走路を備えた八角形の敷地を土手で囲み、その南西、今の西日本短期大付属高がある場所に兵舎を建てた。七字さんも近くで暮らしていたが「訓練生と接触する機会はなく遠目に見ていた。みな2、3歳上でしょうか。若かった」と振り返る。「赤とんぼ」と呼ばれる練習機が30機ほどあり「空襲が激しくなると、飛行場の外に広がっていたハゼ畑の中に飛行機を隠していた」。

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 飛行場には少年飛行兵もいた。福岡市中央区の中牟田久敬さん(88)はその一人だ。45年3月、大刀洗飛行場が米軍の空爆を受けると「岡山飛行場や知覧に特攻隊員を集めていた」と話す。出撃前夜、風呂場で先輩飛行士の背中を流すのも少年兵の役目だった。「じっと押し黙っていた。どんな思いを抱えていたのか」

 岡山飛行場で訓練を終え知覧から特攻に出撃した記録は残っているが、終戦間際には八女の地からも特攻に出撃していたのだろうか。それとも知覧などに向かい、即、出撃が決まったということか。

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 終戦後、飛行場は農地になり、引き揚げ者に分配されたという。七字さんの父は戦後、建設会社を興し、飛行場跡地の分割も請け負った。ただ「農業がうまくいかず、定着した人は少ないと聞いています」。わずか数年で姿を消した飛行場。今や面影はほとんどないが航空写真では飛行場の形状が見て取れる。まるで忘れ去られることに抵抗するかのように、八角形のラインがくっきりと。

(丹村智子)

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