出征前夜「父の体は、とても温かかった」 80歳語る記憶

西日本新聞 筑後版 平峰 麻由

「命の尊さ伝えたい」

 「ヨシヒロ、カツノリチャンタチ、ゲンキカ オトウサンワタイヘンゲンキダ」。福岡県久留米市三潴町の原田義弘さん(80)は、太平洋戦争で戦死した父・悟さんが出征先から送ってきた手紙を、今も大切に保管している。自伝を書くために手紙や資料の整理をする中で、亡き父との記憶がよみがえってきたという。

 手元にある手紙は1944年9月、広島県呉市に海軍工作兵として配属されていた父から届いた。「オカアサンヤオバアサンノイワレルコトヲヨクマモリ、ヨイコドモニナッテクレ」。当時4歳の義弘さんにも読めるようにと、カタカナで書かれている。

 大川市の軍需工場で働く父に召集令状が届いたのはこの年の3月。当時30歳で家族は義弘さんと母、1歳の弟がいた。出発前、義弘さんは父と博多に出掛け、父の好物の川端ぜんざいを一緒に食べた。

 家族は自宅近くの大通りで、通行人に針と糸で布に玉留めを作ってもらう「千人針」を始めた。戦地での無事を祈る風習で、義弘さんも「お願いします」と声を掛けていると、ある女性が言った。「僕ちゃんね、父ちゃんは元気に帰ってくるからね。この千人針のついたさらしを体に巻き付けているとね、敵の鉄砲の弾が外れるから大丈夫」。数日後、父は出発した。

 9月、呉にいた父の南方出征が決まる。父は1日だけ休みを取って帰省した。長崎県佐世保市の軍港から佐賀駅を経て夜遅く家に着いた。寝ている義弘さんと弟を両脇に抱きかかえて眠った。「父の体は、とても温かかった」。翌朝早く、父は家を出た。

 47年春。父がフィリピンで戦死したと知らされた。詳しい状況は分からない。通称「ポッポ汽車」で白木の箱が届いたが、音はせず中は空っぽのよう。駅から家までの道中、箱を抱える母と義弘さんに周囲の人は手を合わせた。「千人針を信じていたので父の死は受け入れられなかった」。義弘さんは振り返る。

 生前、父が「自分は思う道を進むことはできなかったけれど、長男には将来、電気関係の仕事をしてほしい」と話していたと母から聞いた。義弘さんは父が憧れていた電気工事の職に就いた。「父の分まで温かい家庭をつくりたい」という思いを胸に働いた。息子2人と孫6人に恵まれた。

 父はどんな最期を迎えたのか。40年ほど前、父の戦友に誘われフィリピン・コレヒドール島を訪れた。要塞(ようさい)の役割を果たすトンネルが島中に張り巡らされていた。父は45年2月23日、トンネル内で作業中、爆発事故で亡くなったと、同じ部隊にいた男性から聞いた。

 終戦時、義弘さんは5歳。思い出すのは優しくて、甘い物が好きで、家族思いの父の姿。「なぜ父が死なねばならなかったのか。父との記憶、戦争の悲しさ、命の尊さを、子や孫にも伝えなければ」。そんな思いで自伝を書き進める。 (平峰麻由)

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