仙ちゃんの死 お疲れさま、よく頑張った 原爆を背負って(72)

西日本新聞

 「もう一度だけ、ゆっくり話したかった」。線香を上げ、遺影に語り掛けました。今年7月、被爆者運動を長年引っ張ってきた山口仙二さんが、82歳で亡くなりました。遺影の中の若い頃の仙二さんを見て、懐かしさとともに、大事な仲間を失ったやりきれなさがこみ上げてきました。

 私と仙二さんは被爆直後に入院した旧大村海軍病院で出会いました。その後、長崎市で再会し、反核運動に誘われました。1955年の長崎原爆青年会結成以来、運動を共にしてきたんです。上半身の前面に大やけどを負った仙二さんと、背中一面を焼かれた私。直接被爆して生き残った者同士、仲間意識も強かった。

 仙二さんは自分の感情に素直で、行動力にあふれた人だった。54年、被爆者の治療費が国費じゃなく、寄付で賄われていることを知った仙二さんは怒り、長崎から列車に無賃乗車して国会議事堂まで陳情に行きました。調べもしないで行くから、国会は休会中。後で聞いて、ばかなことをするなぁと笑いました。

2013年に亡くなった山口仙二さんの葬儀。多くの人が別れを惜しんだ

 彼は思いつきで行動するから、ぶつかることが何度もありました。でも、翌日はけろっとしている。「自分の言ったことも忘れてから」と不満に思いましたが、それも魅力の一つ。みんなから「仙ちゃん」と呼ばれ、親しまれました。

 私が反核運動の表舞台に出たのは、赤い背中の写真が世に出た70年以降でしたが、仙二さんはずっと先頭に立ってきた。彼を支えていたのは原爆への怒りでした。82年に被爆者として初めて、国連で核廃絶を訴えたときは迫力があったなぁ。

 10年前、体調を崩した仙二さんが長崎県雲仙市の老人施設に移ってからは、代わりに発言を求められる機会が増えました。私が長崎被災協会長になったのは2006年、日本被団協代表委員を彼から継いだのは10年。先頭に立つ器じゃないけど、立たないといけない状況になりました。

 訃報に触れ、次は自分の番じゃないかと弱気になっています。でも、「動ける限りは頑張るから」と、彼の奥さんに約束しました。仙二さんのようにはできませんが、赤い背中の写真が世界に知られている以上、被爆者の顔としての役割だけは果たさないといけないと思っています。

 天国の仙ちゃんに声を掛けたいです。「お疲れさま。よく頑張ったね」って。(聞き手 久知邦)

◆   ◆   ◆

 「原爆を背負って」の英訳版「THE ATOMIC BOMB ON MY BACK」が米国で発行されました。同国で自費出版する日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は初版500部の発行に必要な資金70万円をクラウドファンディングで募りました。

PR

社会 アクセスランキング

PR

注目のテーマ