あの日、何を報じたか1945/8/23【四里四方を殺傷 罹災者二十万を超ゆ 暴虐の原子爆弾】西日本新聞の紙面から

西日本新聞 福間 慎一

 〈広島市における原子爆弾による惨状は真に言語に絶し、爆弾の性質が特に人体に及ぼす影響が甚大であるため、負傷者はその後も続々死亡し健康者も間もなく症状を呈するという有様で一般市民の被害死傷者は続出している。特に新爆弾は爆心より半径十五キロにわたって人畜を殺傷し幼老婦女子を問わず生きとし生けるものすべてが一瞬にして悲しむべき運命に陥るのである〉

 空襲の被害状況が報じられなかった大戦中から一変、この日の紙面は原爆の威力とその惨禍を1面、2面でそれぞれ大きく報じた。1面の記事の見出しは〈人類の敵・原子爆弾 防総本部鳥井技師・広島惨害調査報告 熱感二秒・ことごとく黒焦げ 爆心部では腸飛出す〉。「被害は僅少」「絶対防げる」などとしてきた戦中とは180度異なる、強い調子だった。

 2面の記事は、広島市の惨状について、〈犠牲者の数は日一日と増加を示していることだけは確実〉と前置きした上で〈爆心が市の中央部でかつ出勤時であったため死者六万以上を数えなお火傷程度の市民も続々死亡している。負傷者は十万以上に達し、婦女子の負傷者は人をして目を覆わせしむるものがある〉と実数を上げて伝えている。添えられた写真は焼け野原になった広島市街を大きく掲載していた。戦時中ではあり得ない構図だった。

 長崎の状況を伝える記事が続く。見出しは〈軽傷者も相当死亡 近接町村にも及んだ長崎の被害〉。

 〈二十二日現在、長崎県防空課の調査による被害状況の全貌は死体検死を行い確認した死者一万四千三百三十五名、行方不明(身許を確認せざるもの)二千八百名、重軽傷者二万三千七百三十九名に達し、全焼家屋(全壊後焼失を含む)一万一千四百九十四戸、全壊家屋一千百三十六戸、半壊家屋五千二百九十一戸、戦災総数十万余名に達している〉と数字を挙げ〈長崎全市で肉親または身寄り親戚などに罹災を受けなかった者はほとんどいないほどの惨状を呈している〉とまで書いている。

 原爆の放射線は、長年にわたり被爆者を苦しめた。記事に「放射能」の言葉はないが、原爆被害の症状を特筆している。

 〈今回の負傷者の中で火傷程度の比較的軽微であり、戦災直後すこぶる元気で歩行も自由であった軽傷者と見られる者の中で、時日の経過に従い緑色の下痢便を排泄しつつ嘔吐を伴い次第に食欲が減退して遂に死亡する者が相当数に達している〉

 どこにも「検閲済」の文字のない、被爆の実相を伝えた紙面。しかしこうした報道は長く続かなかった。9月19日、連合国軍総司令部(GHQ)が占領軍批判などを報道機関に禁じる「プレスコード」を発令。原爆の惨禍は、また隠されることになる。(福間慎一)

   ◇    ◇

 〈〉の部分は当時の記事から引用。できるだけ原文のまま掲載。

PR

社会 アクセスランキング

PR

注目のテーマ