「母ちゃん助けて」崩れる壕の土壁 85歳が語る久留米空襲

西日本新聞 筑後版 野津原 広中

レンコン堀で半日耐える

 戦後75年の取材準備で各種資料を見ていて、会いたくなった人がいた。久留米郷土研究会誌第26号(1998年)に「戦争と私」という一文を寄せた女性で、久留米空襲の体験を生々しくつづっていた。福岡県久留米市本町の中野千恵子さん(85)。ご自宅を訪ねるとお元気で、その体験を直接聞くことができた。

 夏の青空に警戒警報が鳴り響く。1945年8月11日午前。当時、京町国民学校5年の中野さんは、墓掃除に行こうと久留米市白山町の家を出たばかりだった。直後にサイレンは空襲警報に切り替わる。近所の小さな防空壕(ごう)に逃げ込んだ。

 壕の入り口から見ると、国鉄の縄手のガード上で貨物列車が低空飛行の米軍機に攻撃されていた。列車は立ち往生し汽笛を鳴らし続ける。上空から焼夷(しょうい)弾が「ウサギのふんのよう」にバラバラ降る。「ヒューッと音がしてバババッと破裂する。耳をふさぎました」

 米軍機は去ったが、火の海となった中心部の明治通り方面から、布団をかぶった老若男女が逃げてくる。彼らに向かい、中野さんの身重のいとこが道の真ん中で手を広げ「逃げないで消火活動をしなさい」と叫ぶ。当時は防火は国民の責務だった。「危ないと言っても興奮して聞かなかった」

 黒煙が空を覆い、家々が燃えている。「敵機が戻って来たら危ない。白角折(しらとり)神社の方が安全だろう」。母に言われ、近所の女性と2人で近くの神社に向かう。

 神社の手前に広いレンコン堀があった。100人以上の人が、泥水の中でハスの葉陰に隠れている。「もう入れない」と言われたが2人で奥の方に入る。腰ほどの深さ。米軍機に気付かれぬよう顔に泥を塗った。

 夏の暑さと戦火の熱気で堀の水の温度は上がる。それでも米軍機の再来を恐れて、飲まず食わずで半日も濁った水に漬かっていた。

 夕方になって母が「千恵子、千恵子」と叫びながら探しに来た。目だけギョロギョロさせて飛び出すと「誰ね?」。「ドジョウみたいに泥だらけ」のため母は気付かなかったのだ。無事を喜び合って家に帰った。

    ■    ■

 翌12日午後は松脂(まつやに)収集日の当番だった。「敵機がまたいつ来るか分からない」「行くな行くな」。母や兄は反対する。律儀な中野さんは振り切って出掛けた。

 当番の児童3、4人が、瀬下町の水天宮の松林で松の油を集めるのだ。だが着いてみると誰もいない。空襲翌日だから当たり前か。

 1人で作業する。幹にのこぎりで斜めに傷を付け、傷の下部に空き缶を針金でくくりつける。竹べらでこそぎ取ったり、収集缶に移したり。「飛行機の燃料になると聞いていました」

 前触れもなく空襲警報が鳴る。同時に米軍機も現れた。「早く逃げろ」。消防団のおじさんがせかす。「家族の言うことを聞いておけばよかった…」。後悔とともに、水天宮の鳥居の横にある瀬下地区の防空壕まで走って飛び込んだ。

 爆弾が爆発する大音響とともに壕の土壁が落ちる。「母ちゃん、助けて」。心細くてずっと泣いていた。

 やがて外は静かに。「まだ出ない方がいい」。消防団の人が言う。家に向かう間に敵機が来たら隠れ場所はない。二の足を踏む。

 午後6時ごろ。ようやく家にたどり着く。「生きとったか」。怒ったような母の表情が記憶に残る-。

    ■    ■

 60歳を過ぎて、中野さんは短歌を学び、久留米連合文化会に属して詠んだ。

 ダダダダダ機銃掃射の生々し斃(たお)れし人をしりめに逃げき

 慰霊碑は黙したるまま語らねど犠牲者の無念決してわすれず

 (野津原広中)

   ×    ×

 久留米空襲 1945年8月11日午前10時16分ごろから同40分ごろにかけて、久留米市街地が米軍機の焼夷(しょうい)弾攻撃を受けた。死者212人(214人との記録も)、被災家屋4506戸、被災面積156万7000平方メートル。翌12日午後4時半ごろにも米軍機が久留米市を空襲し筑後川の国鉄の鉄橋に爆弾を落とすなどした。

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