中村八大編<476>ジャズとの遭遇

西日本新聞 夕刊 田代 俊一郎

 戦後まもなくして日本に空前のジャズブームが訪れる。進駐軍のキャンプやキャバレー、クラブでジャズが演奏され、ラジオからも流れた。当時、ジャズという音楽がジャンルとして確立したものではなく、新しい時代、新しい音楽の象徴、総称でもあった。福岡県久留米市を離れて上京した中村八大もクロスする。中村は自著の中で「時代の要請」と書いている。

 「戦前に禁止されていたジャズとか大衆音楽がどっと入ってきて、僕はその流れの中に溺れたり、流されたりしながら、こういう時代の音楽から出発していって、最後に自分の音楽をつかめばいいじゃないかと思っていました」 

 昼は学生、夜はキャバレーなどでプロのピアニストとして活動を始めた。自活の手段でもあったが、それを超えてジャズの音楽圏に引き寄せられた。中村の長男の力丸は次のように語った。 

 「もっともヒップで刺激的なサウンドであったことが重要だと思います。父もクラシックの世界への熱い思いを胸にしながら、日々、革新的な進化を遂げていく当時のジャズに傾倒していったように思います」

   ×    × 

 ジャズブームの中で、多くのバンドが離合集散しながらうごめいていた。「ハナ肇とクレージーキャッツ」のメンバーだった植木等は、テレビ番組の中で中村との初対面の様子を回想している。植木が自分のバンドを持っていた1948年のことだ。メンバーには中村の兄の二大がいて、その紹介だった。進駐軍専用のクラブでの演奏だった。

 植木は「こんな子どもがピアノを弾けるのだろうか」と不安に思った。杞憂だった。「すばらしいテクニックでした」。演奏が終わり、給料の話になった。中村は「兄(二大)はいくらもらっていますか」と聞いた。植木が「1万円」と答えると、中村は「では1万3千円」。植木は驚いて「兄さんより高いの?」と聞き返した。中村は「兄の音楽と僕の音楽は違いますから」と言った。中村の自信と力を示すエピソードだ。

 中村は50年、「渡辺晋とシックス・ジョーズ」に参加する。ベーシストだった渡辺は後に芸能事務所「渡辺プロダクション」を立ち上げる。中村と渡辺。ジャズを通じたこの遭遇が後年、日本のポピュラー音楽の新しい流れを創り出すことになる。 =敬称略

 (田代俊一郎)

PR

文化 アクセスランキング

PR

注目のテーマ