さらば 悪夢の一年よ【軍国少年日記】

十月十八日(木)曇

 三時過ぎ、辰己とてんしゃで米兵をみに市役所前に行ったら、ジープの中に米兵が一人ゐたので、話しかけてみた。いろいろと口で尋ねてみたが、相手の言ふことが通じなかったから、後は筆談した。あとでサインしてもらった。(Fred Pieper,Hamilton,Ohio)

 うまれてはじめて外人とはなしをしたのだ。その時の喜び、なんとも言ひようがなかった。今日は最初のこととて、じゅうぶん思ってゐたことがいへなかった。明日は又(また)米兵に話しかけやう。そして英語の勉強を一生懸命やらう。

十月二十二日(月)曇

 三・四年生、三年主体の運動が西日本新聞に出た。小さくではあるが。一体なんてふめなことだらう。早くおさまればいいのに。

十月二十四日(水)晴

 西国分の裏門のところを舟艇が通り、米兵が僕と松尾に煙草たばこをなげてた。二本なげたから一本ひろった。ひろった時、変なもちがした。

 中村屋のところにゐたら、舟艇の上から、僕を米兵がよんだから行ったら、煙草を一箱さして、「ジューエン」といったから、「高すぎる」といってやった。

 米兵は実際のんきで、よくふざける。若い女の人がくると、すぐふざける。

十二月七日(金)曇、朝のうち小雨、後時々晴間あり

 がっこうかえりにデパートの中で、じゅうぐん看護婦を見た。背は小さい方であったが、きれいな人だった。服装は米軍と同じで靴が違ってゐる。少尉であった。米兵と一しょにあるいてゐたが、外人の女を見るのは生れてこれが初めてだらう。口べにをこゆくつけてゐた。

十二月二十五日(火)曇

 クリスマスのかアメリカの自動車はわずかしか通らない。

十二月三十一日(月)晴れたり曇ったり

 いよいよ昭和二十年の最後の日がやって來た。

 今夜より除夜の鐘が復活する。明日はこっは立てて良い。床の間のお供へには、こんぶが敷いてない。ってゐないからだ。

 一年の最後の日として、一年の反省をなす。苦しい悲しい一年であった。B29の巨体をいやといふほど見せつけられた空襲…。防空ごう。空襲警報。つらかった工場動員。久留米しょうばく。はては降伏。闇市場…全くかぞへれば無限の苦いことばかりだった。しかし、われわれは、よくそれにたへて來たものだった。自分の一生にも又とこんな苦しい時代は來ないであらう。しかし、でも自分のやうな不忠者にとって、うれしいこともあった。それは米軍進駐、武道教練全廃、英語熱激化等である。

 しかし一括してみると、苦難の年だった。

 さあ、新しき明日より新生日本のために、平和日本のために一生懸命勉強しやう!

 では、「さらば 悪夢の一年よ」

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 【注釈】3年主体の運動…1945(昭和20)年10月22日の西日本新聞によると、明善校の3年全員と4年の半数が学校側に要望を提出、「明善革新」の旗を押し立てて篠山神社に向かった。気勢を上げたが、校長の回答を受けて収まった

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 竹村逸彦さん(89)が14歳だった1945年に書いた「軍国少年日記」を、できるだけ原文のまま掲載しました。約2カ月半にわたって読んでくださり、ありがとうございました。竹村さんの同年代の方々からは「当時がまざまざと思い出される」「つらかったが懐かしい」との言葉をいただき、戦後世代の方たちは「まるで、自分がその時代にいるようだ」と追体験をされたようです。

 それにしても、久留米空襲の当日、14歳の少年がしょういだんの降る中で消火活動し、その体験を詳述した上で教訓まで導き出した日記には、感服しました。戦争を知らない私たちにとって、貴重な財産を残していただき、ありがとうございました。(久留米総局一同)

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