「そもそも戦うような相手ではない」東浩紀×伊藤亜紗、コロナ禍を考える

西日本新聞 文化面

対談:コロナ禍を考える(中) 

 伊藤 よく「コロナに対する戦争」と言われますが、生物学者たちが指摘している通りに、ウイルスはそもそも戦うような相手ではないですよね。

 ウイルスは、人間のような高等生物の遺伝子の一部が外に出たもので、進化において重要な役割を果たしています。つまり、仲間とは言わないまでも、私たちの分身のような存在です。それを敵と見なしてコントロールしようという発想自体が、生命の原理からするとそもそも間違っているかもしれない。

 私自身は研究で身体の障害について考えてきました。コントロールできないことにどう向き合うのか考えることが、研究のベースにあります。

 私たちの体は、一番身近な自然です。決して思い通りにはならないものをかかえて、私たちは生きている。今回のコロナ禍で、人間の中にある自然性について考えさせられました。

  台風や地震は大変な災害です。日本人はこの国に住んでいる以上、やむを得ないリスクだとどこかで諦めて生活している。ところが、パンデミック(世界的大流行)に対しては絶対に諦めない、という強い反応が出てしまいました。

 伊藤 100%の安全・安心を追求しようとすると、すべてをコントロールしないといけなくなります。

  入院中の高齢者と家族が面会できなくなりました。高齢者にとってコロナのリスクは高いので、当然の措置ですが、深刻な問題も引きおこしたと思います。

 妻の父が数年前に亡くなりました。余命を告知された春に、親戚みなでディズニーランドに泊まりがけで行きました。今年ならばできなかった。かけがえのない時間を奪われた人たちが多くいたと思います。生命のリスクだけですべてを判断するのが正しいのかどうか、議論されないといけない。少なくとも、一切面会できない、という以外の選択肢がなければいけないのかなと思いました。

 伊藤 現代の社会においては、死が日常生活の外部に置かれ、専門職に委ねられた結果、管理下に置かれるようになりました。しかし死は本来自然の側の出来事です。誰もが持っているこの究極の弱さ、コントロールできなさを介して、もっと人と人がつながることができたらいいのに、と思います。

  今回はつながることそのものが悪になりましたね。

 感染者は、本当はたまたま拡散するルートに選ばれてしまった不幸な人たちと考えるべきです。しかし、今はそれを「うつす人」「うつされた人」と加害・被害関係でとらえようとしていて、違和感があります。初期に集団感染した京都産業大の学生たちが誹謗(ひぼう)中傷を受けたこともありました。

 伊藤 日本では自己責任論が強いので、「感染した場合はその人が悪い」と考える人の割合が、米国や英国などと比べて高い、という調査結果があります。

  健康に関する自己責任幻想は、コロナ以前から広がってきたものですね。生活習慣病についての言説が典型ですが、「体が悪いのは自己制御ができていないからだ」という考えが強くなっている。

 今後、社会がコロナ以外の感染症にも敏感になったら、生活は大きく変わります。インフルエンザの認識が鍵を握ると思います。

 以前は冬には飛行機の中で咳(せき)をしている人が多くいました。これからは誰も許容しなくなるかもしれない。搭乗前の発熱チェックが必須となれば、出張の日に熱を出したらアウト、昇進ストップの世界になりかねない。

 伊藤 咳が禁止される世界になるかもしれません。文化って案外、人間の不快感がつくっていますよね。ヨーロッパ中世の食事は、テーブルに大皿一つ置いて、それをみんなで手づかみで食べていた。近代化した途端に、一緒では嫌だよね、と変わった。

 人と一緒にいることが不快だということが定着した場合、かなり大きいことだと思います。それは人々の分断が進んできた近代以降の変化の状況の延長なのかもしれませんが、簡単に巻き戻せなくなる。爪痕として残るんじゃないか。

  外出自粛で人々が集まることがむずかしくなりました。表現や言論の自由についてはみな声高に訴えるのに、「集まることは大事だ」という議論がほとんど出なかったことに驚きました。言論の自由を象徴する場として英国のハイドパークにスピーカーズコーナーがありますが、一人でしゃべっても意味はない。人が集まるからこそ言論の自由があるのです。

 伊藤 みんなズームで集まることができていると思っているのかもしれませんね。でも、単純に集まることをしていないと、社会というものの実態を感じられなくなりました。社会がなくなったという感じでしょうか。

  そもそも政治も雑談がないと成立しないものだと考えています。日常的な生活のなかで、たとえば「小池知事どう思う」と話題にする。そこで「意外と評価する人がいる」「世の中にはいろいろな考えがある」と知ることが、公共的な意識の基盤になります。

 そのためには、不要不急の場が大事になります。投票だけが政治ではないし、活動家の話ばかり聞いても全体が見えなくなるだけです。不要不急の雑談を切り離そうとすると、「要」本体が脆弱(ぜいじゃく)になっていく。コロナ禍は政治的な不安定さを呼ぶかもしれません。

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