学校、会社は何のために行く?感じた問い 東浩紀×伊藤亜紗、コロナ禍を考える

西日本新聞 文化面

対談:コロナ禍を考える(下) 

 伊藤 緊急事態宣言ですべての予定が狂ったことは、経験として重要でした。

 小学5年生の息子は5月は学校がなくて動画配信を見ていましたが、「何のために勉強しているか分からない」と言っていました。学校へ行くというそれまで当たり前のことが、強制されていただけだと気付いたのです。

 「教育は何のためにあるのか」「会社に何のために出社するのか」といった、みんなが感じた問いをもう少し考えなくてはいけないと思います。

  同感です。僕たちの社会は複雑になりすぎてかえって弱くなっている。延期された五輪でびっくりしたのは、中止や延期用のプランが用意されていなかったこと。五輪は冬季を入れたら2年に一度。コロナがなくても中止の可能性は考えられるはずです。事故が起きないという想定で巨大資本を動かす危険に気づいた方がいい。社会を全体的に、もっと気楽な体制にした方が持続可能だと思います。

 伊藤 選択肢が一つではなく、何かが起きたとき、変われるというのは大事です。家庭でも父親が料理するとか、自分の役割ではなかったことをする人が多かった。危機が起きると、システムがそのままでは使えないから外部に出ようとする。それは良かったと思います。

  僕はコロナで社会が良くなるとは思っていません。

 産業界では「デジタルトランスフォーメーション」が進むなどと言われていますが、人間や社会についての浅く楽観的な認識に基づいていると思います。

 そもそもここ十数年の社会のデジタル化の流れには多くの負の面がありました。それが検討されないままに加速している。

 伊藤 ズームで大学の授業をしていると、「寂しい」というのが学生の基本的なマインドです。ズームって不思議で、お互いの姿が視覚的に見えていても、場を共有している感じがしない。そこに人間が存在している尊さがない。個というものが機械的なネットワーク的接続しかしなくなっている状況が数年続いた場合、すごく大きな影響をもたらす。

  全くそのとおりだと思います。人間が話すということは、究極的にはお互いの身体で同じ空間を震わせるということ。そういう接触がないと、コミュニケーションは成り立たない。

 伊藤 人と人のコミュニケーションには「伝達」と「互いに生成していくもの」があります。ズームの現状の性能だと、声がかぶることもできないので、「伝達」だけになってしまう。

 一方で、ズームのほうが授業に出やすいという学生もいるわけです。学校や職場に行く人が減った4月は自殺者が大幅に減ったというデータがあります。

 親密さと暴力は紙一重です。相手の中に踏み込むことは暴力でもある。でも、境界を越えて相手の中に入ることは、必要なことだと思います。

  難しい問題ですね。

 すべてがテレワークの業務委託になればいいというのは、経営者目線では理解できます。お互いの感情に付き合わなくていいということだから。けれども人間は感情的な存在なので、どこかにしわ寄せがくるだけだと思います。

 伊藤 感情は自分のものであって、そうではない部分がある。周囲の鏡というか、人との関係の中で変化していく。無理に制御しようとすると、周囲に触発されることを禁じて自分の可能性を狭め、自分の頭だけで完結する生き方になってしまう。

  「3密を避ける」というのは、「感情を共有する場所を排除する」ということです。飲み会も行かなくていいし、スポーツ観戦も家で見ればいい、ライブもオンライン配信でいいじゃないかと。でも「みなさんの感情はそれで大丈夫なのか」と思ってしまう。生活の場で感情が満たされないと、安っぽいポピュリズムが入り込んでくる気もします。

 伊藤 感情は過去の経験の蓄積によってできたある種の判断能力でもあります。いろいろなことが数値化されているが、その分析的な判断を補完してくれる。

  僕の会社にとって、トークショーをオンライン放送した収益は大きいのですが、オンラインだけだとクオリティーは下がると判断しています。思わぬお客さんが来てくれて、思わぬ形で紹介される人間関係を使って次のイベントの企画が動くことがよくある。この余白が失われると、長期的には死活問題になります。

 伊藤 本を出すモチベーションも下がります。想定外の人に読まれていろいろなリアクションが来るのが面白くて書いているところがありますが、出版トークイベントがズームになってしまうと…。

  短期的な効率性と長期的な持続可能性は異なる。そのことをもっと広く議論してほしい。短期的な効率性を考えたら、人間関係のノイズを切り捨ててデジタルにした方がいいと感じるひとはいるでしょう。しかし、それを追求すると組織も学問も持続性を持たなくなります。

 伊藤 今回のような危機的状況では、数値化など可視化できるものに人が引っ張られてしまいます。しかし、可視化できないものは常にあります。ズームで見えている人よりも、見えていないどこか遠くの人や、亡くなった人のほうが一緒にいるという感じがしたりする。

 自分の評価や業績がすべて数字に縛られるように、可視化には、内発性が見失われ、何が重要なのか分からなくなるからくりがあります。可視化できないものを大事にしたいと考えています。

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