「女性も戦地で生死の境」従軍看護婦の出征旗語る 村挙げて壮行

西日本新聞 筑後版 渋田 祐一

うきは市に遺族が寄贈

 福岡県うきは市教育委員会を取材で訪れたとき、巨大なのぼり旗(縦364センチ、横74センチ)を目にした。戦地に向かう人を送り出す出征旗で「家永彌生孃(やよいじょう) 應召(おうしょう)」と筆書きされている。その脇には出征旗を贈ったとみられる「福岡縣(けん)浮羽高等女學校(じょがっこう)第二十三回卒業同窓生一同」と記してあった。こんなに大きな出征旗で見送られた家永彌生さんとは、どんな人物だったのだろう。

 うきは市は5月、家永彌生さんの遺族から出征旗の寄贈を受けた。今月25日に市教委を訪れた家永さんの長男久雄さん(76)=埼玉県戸田市=によると、家永さんは1915年生まれで看護師だった。浮羽高等女学校を卒業後、大阪の日赤看護婦養成所で学び、そのまま日赤病院で働いた。

 「赤十字福岡九十年史」(80年3月発行)によると37年9月26日、国内外の陸軍病院に派遣される赤十字社県支部の救護班が3班編成された。そのうち第85救護班(24人)に家永さんは召集された。両親は大喜びしたという。家永さんは男2人、女2人の4人きょうだいの次女。兄2人は教員のため出征せず、家永家では初の召集だった。「それまで家から誰も出征していなかったので、母の両親は肩身の狭い思いをしていたようだ」と久雄さん。

 出発前、古里の千年(ちとせ)村(現うきは市)に立ち寄った家永さんを待っていたのは村を挙げての大歓迎だった。村から誕生した、兵士を救う従軍看護婦。「筑後吉井駅までの約3キロを、巨大な出征旗を先頭に、大勢の村人が家永さんと一緒に歩いて見送った」という。

 第85救護班は、中国の上海陸軍病院に派遣され、陸軍部隊とともに転戦した。戦闘が続き、昼夜を問わぬ看護が続く。「野戦病院で兵隊さんが死ぬとき『天皇陛下万歳』とは言わない。ほとんどが母親や身内の名をつぶやき、息を引き取った」。家永さんが子どもたちに話した言葉だ。

 家永さんの次女豊福幸恵さん(75)=小郡市=は、母が豆腐を全く食べなかったことを覚えている。「野戦病院で見た、頭から飛び出た脳みそを思い出すからとのことでした」

 39年5月1日に帰国し、久留米陸軍病院(久留米市)に勤務。9月15日に再び、赤十字社県支部の臨時第38救護班(36人)の一員となり、広島へ赴いた。3隻の病院船で1年10カ月間、従事した。

 再召集前、久留米陸軍病院の同僚や患者が、日の丸(縦70センチ、横100センチ)に寄せ書きしてくれた。「白衣の女神」「傷病兵の母」などの言葉が。患者らに慕われていたことが伝わる。

 「若い人たちに、女性も出征し、戦地で死と隣り合わせの日々を送っていたことを知ってもらいたい」。久雄さんは出征旗を寄贈した理由を語る。

 出征旗は、うきは市の吉井歴史民俗資料館で9月末まで展示している。来年以降も毎年展示するという。 (渋田祐一)

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