悲劇伝える国境の島 藤崎真二

西日本新聞 オピニオン面 藤崎 真二

 多くの遺体が数カ月にわたり海辺に流れ着いたという。約70年前の長崎県・対馬北部西岸の佐護湾。海岸に打ちつける波に、どれだけ凄惨(せいさん)な光景だったろうかと想像した。

 お盆前に訪れた対馬・比田勝港周辺。1年余り前のにぎわいがうそのように静かだった。連日、韓国人観光客であふれていた国際ターミナルはコロナ禍のため釜山航路がストップし、今や人影もない。

 佐護湾を訪れたのは、滞在先のゲストハウスで偶然手にした冊子「済州島四・三事件犠牲者慰霊祭報告集」がきっかけだった。「供養塔」と刻まれた石碑、その前で手を合わせる人たち、祭祀(さいし)の様子を伝える写真などに目を奪われた。韓国・済州島の犠牲者慰霊祭がなぜ、対馬で-。

 現在リゾート地として知られる済州島は1948年、悲劇に襲われた。朝鮮半島は当時、米ソが分割統治。南北分断に反対する勢力が4月3日に武装蜂起したが、軍や警察の鎮圧で虐殺が横行した。

 島民30万人のうち3万人を超える犠牲があったといい、手足を縛られたまま海に流されるなどしたという。こうした遺体が海流に乗って東へ約240キロ流され、対馬に漂着したとみられる。

 対馬の供養塔を建立したのは比田勝の建設業、江藤幸治(ゆきはる)さん(63)。父親の光さんから200体超の遺体を知人らと一緒に埋葬したと聞き、その父が亡くなった2007年に「哀れな異国の魂を鎮めたい」との遺志を受け継いだ。

 ふと、北端の韓国展望所に立つ「朝鮮国訳官使殉難之碑」を思い出した。そこに112人の名が刻まれている。

 訳官使とは外交交渉のため朝鮮国が派遣した使節。1703年、対馬藩との協議のため訪れた108人と藩士4人を乗せた船が大しけで沈没、全員死亡した。朝鮮通信使などについて話し合い、江戸期の来島は50回を超えた。

 碑は「こうした歴史を忘れまい」と日韓の官民有志が資金を寄せ、1991年と2003年に建てられた。

 供養塔が立つ佐護湾では、済州島の慰霊祭に参列を続ける市民団体や遺族会、江藤さんらが昨年に続き4回目の慰霊祭を9月27日に予定していた。残念ながらコロナ禍で1年延期になったという。

 対馬と済州島。悲劇によるつながりは国境にあるがゆえの宿命か。無念の魂を悼み、史実を後世に伝えようと手を携える人たちに、日韓交流の一つのあり方を教わった。

 今回、供養塔に参ることはかなわなかった。直前の豪雨による土砂崩れが道路をふさいだためだ。白波の立つ海に再訪を誓った。 (論説委員)

PR

社説・コラム アクセスランキング

PR

注目のテーマ