「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」…

西日本新聞 オピニオン面

 「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」。歌人の河野裕子さんが2010年8月に64歳で亡くなって、もう10年になる。この歌は死の前日に詠んだものを夫で歌人である永田和宏さんが書き留めた

▼河野さんは大学在学中に角川短歌賞を受賞し歌壇デビュー。以来、短歌の主要な賞をほとんど受賞した戦後歌壇のトップランナーだった。本紙の西日本読者文芸の選者も務めた

▼2000年に乳がんと診断され、服薬の影響もあり精神的に不安定になる。その時期の家庭は修羅場だったという。しかしやがて落ち着きを取り戻し、08年に再発の診断を受けてからは短歌の仕事に集中する

▼そのころ妻はこう詠む。「わが知らぬさびしさの日々を生きゆかむ君を思へどなぐさめがたし」。夫はこう詠んだ。「一日が過ぎれば一日減つてゆく君との時間 もうすぐ夏至だ」。そして最後に冒頭の一首。短歌史に残る辞世の歌であり相聞歌だ

▼少し前、難病の女性がネットで自死の手伝いを依頼し、医師2人が薬物を投与し実行したとして嘱託殺人罪で起訴された。その女性の心情を想像するうち、不意に河野さんの歌を思い出した

▼難病に苦しむ患者が自ら行った選択を、健康な人間がいろいろ言うのは傲慢(ごうまん)だと分かっている。しかし、愛する人に触れたいのに「息が足りない」と嘆く歌を読めば、やはり思う。生きていることの美しさを。

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