原点は山奥の清流 「地方たたき上げ」菅氏、黒子から主役へ

西日本新聞 一面社会面 森井 徹 前田 倫之

 冬には豪雪に見舞われる山あいの集落は、こうべを垂れる稲穂で黄金色に染まっていた。秋田県南部の湯沢市秋ノ宮地区。田園を縫うように、太公望に愛される役内川が流れる。

 「子どものころは夏は魚捕り、冬は相撲かスキー。それしかなかった」。地区で生まれ育った菊地洋一さん(71)は幼少期を振り返る。「おい、ザッコ(雑魚)捕りさいくどー」と誰からともなく誘い合い、日が暮れるまで川に入った。

 イワナ、アユ、ときに数十センチのマス。地区には、魚捕りがひときわ上手な同級生がいた。モリを手に潜ると獲物をさっと仕留め、周囲にはにかんだ笑顔を見せた。14日午後、菊地さんはテレビ画面でスポットライトを浴びる男に、遠い記憶を重ねた。

 「あの時の表情だな。ヨシヒデがここまでなるなんてな」

 菅義偉氏はこの日、自民党総裁選で圧勝し、万雷の拍手の中で「この日本のために、そして国民のために働くことを誓う」と高揚気味に語った。

 気遣い、負けず嫌い、一度決めたら譲らない-。幼なじみが共有する菅氏の印象はこの3点だ。そしてこう口をそろえる。「スポーツは万能。勉強もできる。でも、どれも1番ではなかったな」

 相撲では相手にけがをさせないよう投げ飛ばさず、つり出した。腕っ節は強かったが、友人同士のけんかは双方の言い分を聞いてなだめた。中学の野球部では、熱心な練習で憧れのサードを射止め、変則的な打撃フォームの修正を監督に命じられても「これが自分に合っている」と貫いた。

 進学した湯沢高まではバスと汽車を乗り継いで2時間。雪に閉ざされる冬場は下宿する。幼なじみの伊藤英二さん(71)は長い時間を語らったが、将来の夢を聞くことはなかった。父はイチゴ農家として成功。姉2人は教員。どちらかの道に進むのだろうと思っていた。

 1967年。卒業を迎え、集団就職の同級生は東京へ。波に乗り遅れた菅氏もすぐに上京を決めた。高校1年の時に地元で聖火ランナーの伴走をした東京五輪の高揚感が残っていたのかは分からない。伊藤さんはこんな言葉を聞いた。

 「農業じゃいい暮らしはできねえ。ほかのことさ見つけてえ。何かやることがあるはずだ」

 間もなく国のトップに立つ菅氏は、明確な目標を持たずに故郷を飛び出した青年だった。

目標達成に手段選ばず

 秋田を出て、東京都内の段ボール工場で働いた。学費をため、アルバイトを掛け持ちしながら法政大法学部を卒業。「世の中を動かしているのは政治だ」と政界に飛び込み、国会議員秘書を経て地方議員に-。

 菅義偉氏は自民党総裁選で、「地方出身のたたき上げ」である自身の経歴を繰り返しアピールした。それは今に始まったことではない。

 もう30年以上前、小中高の同級生で元秋田県湯沢市議の由利昌司さん(71)は横浜市議になったばかりの菅氏と会った。同じ地方議員として、縁もゆかりもない土地で選挙を戦う厳しさを知る由利さんが「よくぞやれたな」と声を掛けると、菅氏はこう答えた。

 「横浜は生粋の地元の人だけじゃない。街頭に立つと、演説のなまりを聞いた地方出身者が足を止め、応援してくれた。それが励みになった」

 大学OBの紹介で菅氏が秘書を務めたのが小此木彦三郎元通産相。その地盤が横浜だった。当選同期の元市議は「忙しい小此木氏に代わり、菅氏は地元の企業や支援者と関係を築いていた。議員の素地はできていた」と言う。

 初挑戦の1996年衆院選で「地元じゃない」と他陣営から攻撃された。あえて名刺に「秋田出身」と刷り、地方出身を押し出した。それは現在も続く。大都市の横浜で地盤を固めつつ、「土のにおいのする政治家」(自民党元幹部)を売りに当選を重ねた。

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 自民党横浜市議団には、若手からベテランまで総意で団長を決める慣例がある。市議の田野井一雄さん(79)は「それは菅さんのレガシー(政治的遺産)だ」と語る。トップダウンの人事案に、当時新人だった菅氏が「1期生でも市民の負託を得ている」と異を唱えたのが発端だったという。

 意志あれば道あり-。国政でも自身の座右の銘を貫いた菅氏だが、党内では「負け組」が続く。98年総裁選では、政治の師と仰ぐ梶山静六元官房長官を支持して所属する小渕派を離脱。2000年には森内閣不信任案を巡る「加藤の乱」に同調した。

 立て続けに政局に敗れ、いつしか無派閥の「異端児」と見られるようになった。「私は負け続けた人間」と語ったこともある。だが安倍晋三氏を支える「側近」ポジションを確保すると、その境遇が一変する。

 第1次安倍政権で総務相に就任すると、省内の異論を抑え込み「ふるさと納税」を創設。NHKの受信料を引き下げる改革にも着手した。反発する官僚は更迭もいとわなかった。当時を知る元総務省関係者は「信念だけではない。菅氏の持つすごみ、怖さを感じた」と振り返る。

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 危機管理のため東京をほとんど離れず、日課の散歩もスーツでこなす。朝昼晩と各界の関係者と会食し、情報収集にいそしむ-。第2次安倍政権の官房長官として7年8カ月、それが菅氏の日常だった。

 「あれだけ人に会うから、何が批判を受けるか誰よりも分かる」と周辺が語る通り、リスクを嗅ぎ取る感覚は研ぎ澄まされた。問題閣僚は早々に切り捨て、災害時は「プッシュ型支援」で政権批判の芽を摘んだ。

 一方で「目的達成には手段を選ばない」(衆院当選同期)という一面が顕著になっていく。

 官邸主導で中央省庁の幹部を動かせる内閣人事局が14年に発足。「政権の方向に官僚を動かせるようになった」と周囲に漏らし、官邸の歓心を買おうとする「忖度(そんたく)官僚」を生み出した。自身を慕う議員の重用も目立つようになった。

 「自分を舞台の俳優だと思え」。菅氏は自身の秘書をこう指導してきた。自分を客観視し、与えられた役割をこなせとの意味だという。菅氏自身、「令和おじさん」で知名度を上げ、首相候補に名を連ねても、上昇志向を表に出さず、黒子役に徹してきた。

 必然か、偶然か。ナンバー2を演じきった菅氏は主役の座を射止め、舞台の中央に躍り出た。その舞台から飛び降り、国民に信を問うのかどうか。記者会見で衆院解散の意向を聞かれた菅氏は「総裁に就任したわけですから、仕事をしたい」とはにかんだような笑顔で言った。

(森井徹、前田倫之)

 

 

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