ベトナムから流浪の一杯…名物の麺料理を巡って店主を質問攻めに

西日本新聞 もっと九州面 小川 祥平

◆ラーメン のれんのヒストリー 替え玉(9)シンチャオ(福岡市中央区)

 先日の夜、福岡・六本松で友人と痛飲し、締めの一杯を求めてさまよった。40代半ばにさしかかった2人。「あっさりしたものを」と流れ着いたのはベトナム料理店「シンチャオ」(福岡市中央区)だった。友人の行きつけらしく、大将の渡辺治さん(45)を紹介されて名刺交換。その裏に書かれた自己紹介に驚かされた。

 <1975年ベトナムホーチミン(サイゴン)生まれ。4歳の時に難民船に乗って東京を経て福岡にたどり着いた>

 ベトナム名物の麺料理「フォー」を食べてお開き、のはずだったが、そうはいかなくなった。ベトナム? 難民船? 気付けば渡辺さんを質問攻めにしていた。

 結婚して婿養子に入った渡辺さんの旧姓は竹原。ベトナムが南北に分断されていた時代に父親の竹原茂さん(86)は南ベトナムに漁業指導員として渡り、母親のはるみさん(69)=ベトナム名、ホワァ=と出会った。渡辺さんに続き、長女恵子さん(44)、次男実さん(43)を授かり、前途洋々たる未来が開けたはずだった。

 76年、南北ベトナムが統一されると生活は大きく揺るがされる。社会主義国化への不安もあった。仕事はなくなり、食料も逼迫(ひっぱく)した。周りの多くも「ボートピープル」として亡命を試みていた。「おやじが船を操縦できることもあって、脱出を決めたんです」と渡辺さん。

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 全長25メートルの木造船が、漆黒の海を頼りなく進む。大揺れの船内で4歳の渡辺さんは妹、弟とともに母親の胸にうずくまっていた。

 約530人の難民を乗せた船では、1平方メートルに4人がひしめく。茂さんは、そんな「地獄船」のかじを握り、その手には難民たちの運命も委ねられていた。

 ベトナムを離れたのは79年4月。最初はオーストラリアを目指したが、死者が出るなどすぐに無謀だと悟った。途中で羅針盤を失ったため、昼は太陽、夜は南十字星を頼りに進路を取り、マレーシア南端に漂着。運良く難民キャンプに移送されて九死に一生を得た。

 頂いた名刺の自己紹介はこう続く。

 <7歳の時に両親が博多駅南でベトナム料理店「南十字星」を開業する>

 79年8月に帰国した2人は日本で初めてのベトナム料理店「アオザイ」(80年創業、東京)で腕を振るい、2年後に茂さんがかつて働いていた福岡で自分たちの店をオープンした。闇夜で家族を導いてくれた星の名を冠して。

 それで安泰とはいかなかった。「ベトナム料理といっても誰も知らないから」。両親は掛け持ちで仕事をした。客の残した料理が夕飯になった。小学生だった渡辺さんは下ごしらえや接客をこなし、中学生になると厨房(ちゅうぼう)に入った。

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 「軌道に乗ったのは高校生の頃ですかね」。そう振り返りながら渡辺さんは一杯を差し出した。

 あっさりと思いきや意外に濃厚な鶏だしスープ。つるりとした食感の米粉麺はベトナムから取り寄せている。そして付け合わせの生野菜の量がすごい。コリアンダー、空芯菜などが山盛り。野菜を入れたり、チリソースを加えたりと味の変化も楽しめた。

 幼少期からベトナム料理に人生をささげてきた渡辺さん。反発心もあったのだろう。28歳の時に店を離れ、その後の8年間さまざま仕事を経験した。それでも「やっぱりこの道しかなかった」。2017年にシンチャオを開店し、昨年7月には、福岡市城南区に干隈店をオープンした。

 「母親の味を少しでも多くの人に知ってほしい」との思いが渡辺さんの原動力だが、近年は別の思いも芽生えている。

 法務省の統計(19年)によると、九州の在留ベトナム人は約4万人で、5年で4倍以上になっている。福岡県にはその半分近くが集中し、実際、ベトナム人客も増え続けている。

 「母国を捨てた僕とは違うけれど、わずかなお金で頑張っている人も多い。ベトナム料理に触れて古里を思い出してほしい」

 数々の苦難を乗り越えてきた流浪の一杯は、異国の味、祖国の味として根を下ろしつつある。 (小川祥平)

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