地獄の転進、また転進 元工兵が記す「ラバウル攻防戦と私」

西日本新聞 文化面

ニューギニア戦記を追う<5>

 前回触れたグンビ岬への連合軍上陸は昭和十九年一月である。この時点でダンピール海峡は突破されたことになり、それはビスマルク海を連合軍が制することを意味し、いずれラバウルが孤立することを意味していた。ラバウルのあったニューブリテン島にも連合軍はむろん上陸している。昭和十八年十二月である。マーカス岬やツルブの攻防戦を経てダンピール海峡を睨(にら)む飛行場は連合軍の手に渡り、敗れた日本の将兵はニューギニア本島と同じ有様(ありさま)の転進へ追い込まれる。

 「ラバウル攻防戦と私」を著した横川正明氏は、ニューブリテン島における地獄の転進を経験した工兵である。実のところニューブリテン島を東部ニューギニアにくくるのは戦史の上ではいささか難もあるのだが、現代人がニューギニア戦から連想するのが「ラバウル」「航空隊」「水木しげる」にほぼ限られるので本書は是が非でも紹介しておきたい。

 前段は昭和十八年当時の切迫感が顕わである。ラバウル上陸後ニューブリテン島中部南岸のリンデンへ向かう駆逐艦に乗せられるのだが、これが上陸翌日のことというから驚かされる。駆逐艦は空襲を受けつつ四百五十キロを航行し、陸から二十キロも沖合で折畳舟を降ろしている。敵機と魚雷艇を怖れてのことと思われるが、敵上陸前ですらニューブリテン島はそうした状況であった。折畳舟に至っては多くが発動機不調で横川氏たちは手漕(てこ)ぎでリンデンヘたどり着く。そのリンデンは食糧難にあり、上陸早々食べ物を探して歩き回らねばならなかった。同地を撤退する昭和十九年二月までのあいだ補給は二度のみであったという。それも潜水艦によるものだった。

 マーカス岬やツルブに敵が上陸し、ラバウル航空隊の姿もやがて空から消える。そんなある日、横川氏を含む四名の工兵は二十キロ西にあるガスマタの患者三十名の後送を命じられる。水木しげる氏の「総員玉砕せよ!」にも名が記されているジャキノットまで折畳舟で往復するのである。補給に潜水艦を使わねばならない海でのこと、往路に強いられた三泊では疲労と陽光に発狂者すら出している。しかし本当の苦しみはガスマタヘ戻ってから訪れる。所在の隊はすでにラバウルへ向けて転進しており、連絡のための二名が残されていただけであった。患者後送はこの地の放棄のためであったことを横川氏は知る。

 燃料の切れた折畳舟を処分し、横川氏はラバウルへ向けて歩き始める。進むほどに餓(う)えと病が深刻化するその転進は七十五日におよぶ。途中で得られた食べ物はイモ、ゼンマイ、樹の新芽、カニなどであった。

 何も知らされず、ただ命令と現実に翻弄(ほんろう)される。本書の大半は末端将兵の苦しみに占められている。 

 ラバウル 九州よりやや小さなニューブリテン島東端の都市。「米国側資料が明かすラバウルの真実」(吉田一彦著、ビジネス社)によると、ニューブリテン島はドイツの植民地だったが、第1次世界大戦を経てオーストラリアの委任統治領となる。ラバウルの敵戦力が強化されれば南洋諸島への展開を目指す日本軍の脅威となるため、1942(昭和17)年1月に占領すると約2年かけて基地を強化。43年11月時点でニューブリテン島の日本軍兵力は陸海合わせて9万7870人に上る重要拠点となった。「米軍が記録したニューギニアの戦い」(森山康平編著、草思社)によれば、第8方面軍司令官・今村均大将は自活自給を促してラバウルに籠城し、約7万人を無事終戦に導いた。漫画家の故・水木しげるさんが派兵されたことでも知られる。

 古処誠二(こどころ・せいじ) 作家。1970年生まれ。福岡県久留米市在住。高校卒業後、自衛隊勤務などを経て、2000年にメフィスト賞を受けデビュー。10年に「わたくし、つまりNobody賞」、17年に「いくさの底」で毎日出版文化賞、翌年日本推理作家協会賞。近著に「ビルマに見た夢」。これまでに3度の直木賞候補。

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