補給途絶で玉砕予想 絶望的な孤立記す「ニューギニア戦 追憶記」

西日本新聞 文化面

ニューギニア戦記を追う<9>

 本書の出版は昭和五十七年だが原稿は昭和二十四年に書かれている。まえがきによれば著者の星野一雄氏は日々のメモをニューギニアに渡る前から録(と)っていたらしい。残念ながらメモは終戦二カ月前の玉砕決意時に焼却されているものの、一度は日々を綴(つづ)った事実はやはり大きい。本書に記された足跡はむしろ明快である。あえて「追憶記」と付け、「正確を期しがたいものばかりである」と断っているのは人柄からだろう。

 星野氏は第四十一師団に属し、終戦時は参謀部付の大尉だった。その立場ゆえの記述には得るものも多いが、本随筆では全軍がウエワクへ転進していく状況を取り上げたい。

 第四十一師団は昭和十八年二月にウエワクへ上陸したあと同地区の態勢強化に従事し、翌年一月マダンへ前進している。悪化の一途をたどっていた戦況がグンビ岬への連合軍上陸で加速したからである。フィニステル山系縦走等を経た第五十一師団と第二十師団の将兵を星野氏はマダンで見ている。両師団の将兵は服もボロボロで、その体力回復をはかって提供された米は多くの胃腸病患者を発生させもした。それでも将兵には休養の時間などなかった。マダンを第四十一師団に任せてさらなる転進へ入る。

 ところが第四十一師団が守るべきマダンは施設破壊を経て放棄される。連合軍はなお西方へ上陸しかねず、事実そうした動きを見せていたのだった。戦いはもはや敵阻止の方策すら立てられない段階に入っていた。

 全軍をあげての転進が始まる。ウエワクへ戻る道で星野氏は「ハンサ熱」とおぼしき三十九度を超える熱を出す。ニューギニア戦記にしばしば登場する原因不明の病である。バクノンやアクリナミンもまるで効かなかったと本書にはある。真の苦しみにあれば恐怖の感覚も鈍り、ゴム林に置かれていた病院が空襲を受けても星野氏は他人事(ひとごと)のように感じている。師団司令部に勤務する将校ですらそうした有様だった。

 昭和十九年四月、転進にあえぐ日本軍を嘲(あざ)笑うかのごとく連合軍はウエワク西方のアイタペとホーランジアへ上陸する。補給の途絶と東部ニューギニア全将兵の孤立を意味する事態である。日本軍はアイタペ攻撃を決意するが見通しはまったく暗かった。終戦まで一年以上を残して訪れたその絶望的状況を星野氏は次のように記している。

 ――ウエワクにある糧食その他の補給物資も、せいぜい八月一杯までしか続かず、それまでにアイタペの米軍を攻撃するというのであるから、これで全軍玉砕ということが予想された。

 古処誠二(こどころ・せいじ) 作家。1970年生まれ。福岡県久留米市在住。高校卒業後、自衛隊勤務などを経て、2000年にメフィスト賞を受けデビュー。10年に「わたくし、つまりNobody賞」、17年に「いくさの底」で毎日出版文化賞、翌年日本推理作家協会賞。近著に「ビルマに見た夢」。これまでに3度の直木賞候補。

PR

文化 アクセスランキング

PR

注目のテーマ