いまも根強い人種差別 消えぬ「違うこと」への恐怖心

 8月23日、米ウィスコンシン州で警察官による黒人男性銃撃事件が起きた。テニスの大坂なおみ選手は事件に対し、明確な抗議の意志を表明した。彼女は「私はアスリートである前に黒人女性です」と述べ、スポーツに政治をもちこむなという批判に「アスリートは政治に関わるべきでなく、ただ人を楽しませればいいと言われるのが嫌だ」「これは人権問題です」と毅然(きぜん)とした言葉で応じた。

 人種差別は、いまも根強い。文化人類学は20世紀初頭の草創期から、この問題に取り組んできた。前回紹介したフランスの人類学者レヴィ=ストロースは、第2次世界大戦後、亡命先の米国から帰国し、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の組織した「人種に関する専門家会議」に参加した。1952年には、ユネスコの反人種主義を広める運動の一環として小冊子『人種と歴史』(荒川磯男訳、みすず書房)を刊行する。

 この本には西欧中心主義を徹底して批判したレヴィ=ストロースらしい人種問題への見解がつづられている。ふつう人種差別への批判は「人類はみんな同じ(だから差別はよくない)」となる。でもレヴィ=ストロースは、逆に人類には驚くほど多様性があることを議論の出発点にする。

 「人種」は肌の色や髪質など身体的特徴で人間を分類する概念だ。レヴィ=ストロースは言う。人間には人種の数にはおさまらない何千もの文化的多様性があり、それは生理的身体的特徴とは無関係である。しかもその文化の差異は「分離」の結果ではなく、緊密な接触のなかで「分化」してきたのだ、と。

 この人類文化の多様性を前に、私たちは進んだ文化と遅れた文化があるという「疑似進化論」に陥りやすい。レヴィ=ストロースはその誤りを丁寧に解きほぐす。まずこの見解は、文化の差異を認めているようで、同じスタートから一つのゴールに到達するかのように諸文化を単一の発展段階に位置づけている。そこでの「差異」は見かけだけのものになる。

 石器を使う民族がいると、数万年前のヨーロッパと同段階だとみなしてしまう。それは一部の要素の類似を文化全体に誤って反映させているからだ。しかも打製石器から磨製石器、金属器へという発展段階も正確ではない。それらは同時期に一緒に使われてきたし、磨製石器は打製石器からの進歩というより、近隣地域にあった金属器を石で模倣したものだった。

 ヨーロッパとの接触以前のアメリカ先住民も、新石器時代のヨーロッパを思わせる。だが、ジャガイモやゴム、タバコ、コカ(麻酔技術の基礎)など新大陸で発展した植物利用がその後の西洋文化の支柱をなし、トウモロコシや落花生がアフリカの生業経済に革命をもたらした。他にもカカオ、バニラ、トマト、パイナップル、唐辛子など、新大陸起源の作物は16世紀以降の世界を一変させた。そもそも人類は農業や牧畜といった約1万年前の新石器革命の発明にいまなお依存し、それを改良してきたにすぎない。「進歩」は一方向の必然的で連続的な変化ではないのだ。

 列車の窓際に座る人からは、同じ方向に動く列車はゆっくりと、逆方向に動く列車は速く見える。文化の場合は、逆に同じ方向だと活動的、逆方向だと停滞的にみえる。しかし、それがほんとうに「停滞」かはわからない。繁栄を謳歌(おうか)し大型化した恐竜が絶滅したように、「進歩」だと思っている動きが破滅への道を歩んでいるのかもしれない。

 西欧で産業革命が起きたのは偶然にすぎない。文明に進歩があるとしたら、諸文化の協働の結果だ。文化が違うからこそ寄与できる。多様な差異と不均衡のなかで、なお協働する。それは「みんな同じで仲よく」といった安穏としたイメージとは対照的に、統合と分化がせめぎあう矛盾と可能性に満ちたプロセスだ。

 私たちは差異を安直に優劣に転換したり、人との違いを否定的にとらえ、同じであることに安心したりする。レヴィ=ストロースの言葉は、そこに潜む「違うこと」への恐怖心を照らし出す。その怖(おそ)れが、黒人に銃を向けた警官の姿にも、大坂選手に投げかけられた非難の言葉にも見え隠れしている。

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 ◆松村圭一郎(まつむら・けいいちろう) 1975年、熊本市生まれ。岡山大准教授(文化人類学)。京都大大学院博士課程修了。エチオピアでフィールドワークを続け、富の所有と分配などを研究。「うしろめたさの人類学」で毎日出版文化賞特別賞。近著に「これからの大学」「はみだしの人類学」。

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