あの日、何を報じたか1945/9/23【米軍先遣隊福岡へ 学童に温かな思いやり】西日本新聞の紙面から

西日本新聞 福間 慎一

 〈二十一日先遣隊として佐世保に上陸した米軍飛行場工作隊先遣部隊将校八名、兵二十名は福岡市席田飛行場整備のため二十二日朝トラック四輌ジープ三輌に分乗、約七時間降雨と悪路を衝(つ)いて午後五時すぎ畑山福岡市長、大藪中佐らに迎えられて福岡着。直ちに宿舎として定められていた博多ホテルに入ったが「われわれは工兵でどこでも寝る用意はできているから皆さんに不自由をかけてはすまない」とホテルの宿泊を断り、さらに「それでは国民学校では」との勧めに「今その学校は授業をやっているのか」と質問し「授業をやっている学校に泊まれるものではない」と温かい思いやりをみせて(中略)飛行場兵舎に来福の第一夜を明かした〉

 GHQのプレスコードが発令された後は、米軍への好意的な記事が増え、一方米兵とのトラブルなどを伝える記事は減少した。

 佐世保から福岡市まで、現在は西九州道などを使えば車で約2時間。当時は7時間も要している。

 進駐軍の宿舎として接収されたのは「博多ホテル」。福岡の街の歴史に詳しい近代史研究家の益田啓一郎さんによると、博多ホテルは現在の祇園町交差点(福岡市博多区)の南西角辺りにあったという。その近くには博多駅。当時は、現在の駅から北西に約500メートル離れた「商工会議所入口」交差点の付近にあり、近くには旅館やホテルが多かった。

 その名前から伺えるように、戦前の福岡を代表するホテルの一つだった「博多ホテル」。しかし街にその記憶はあまり残っていない。このホテルが間もなく、なくなってしまったからかもしれない。

 1946年1月9日未明、博多駅近くにある駅の青年寮近くで火災が発生。炎は乾いた強風にあおられ、旅館街を包み込んだ。この時も、米軍は博多ホテルを使用していた。

 翌10日の本紙は当時をこう伝えている。

 〈博多ホテルに延焼することをおそれた占領軍M・P司令官ウエスト少佐以下二百名の救援隊が破壊消防を決行し三回にわたりダイナマイト二百本を使用して爆破作業を行ったが木造の日本家屋は倒壊したままさらに延焼を続けた〉

 記事によるとこの大火で、博多ホテルを含め104戸もの建物が焼失。旅館街の500人ほどの客を含め1100人以上の罹災者が出たが、〈目下のところ死傷者はない〉としている。

 博多の街を焼け野原にした福岡大空襲からおよそ7カ月後、米軍がその街で防火に「敢闘」する様子を、街の人はどのような思いで見つめていただろうか。(福間慎一)

   ◇    ◇

 〈〉の部分は当時の記事から引用。できるだけ原文のまま掲載。

PR

社会 アクセスランキング

PR

注目のテーマ