「仇は撃つぞ」日記につづった敗戦への怒り 1年後、変化した気持ち

西日本新聞 筑豊版

モノが語る戦争 嘉麻市碓井平和祈念館から(18)

 「聖断下る。大東亜戦争終結」「何時(いつ)か見ていろ、この米鬼。日本人のあの声を聞け。覚えていろ。仇(かたき)は撃つぞ。残虐なる原子爆弾をもって来て、貴様らは犬だ、猫だ。人類滅亡を喜ぶ畜生だ。口惜(くや)しい。口惜しい」。勤労学徒として三菱化成黒崎工場(北九州市)に動員されていた小倉師範学校予科1年生の檜和田數俊(ひわだかずとし)(飯塚市)の1945(昭和20)年8月15日の日記には、にわかに受け入れがたい敗戦に対し、戸惑いや怒りが連ねられていた。

 それから1年、動員日記の後に翌年の夏季休業中の日記がつづられていた。動員と同じ6月23日から日記は始まる。「今自分は仕事に無理が有って、体が悪くなったので二三日休んだ」。学業の傍らアルバイトをしていたようだ。「夜裏の陥落地に針をつけにいった」。翌朝は「大きな物干竿(ざお)のような鰻(うなぎ)が二匹と台湾どぢょう一匹がかかっていた」。産炭地には採炭で陥没した土地に水がたまった陥落池があった。終戦直後、そこでとれる魚は貴重な食糧となった。

 「食糧はますますひっぱくして来る。自分の家では食えない時が出て来た」。親戚を頼り買い出しに行くが、「門司港行が来たので乗ろうとしたが満員でのれない。次の電車にのろうとしたがこれも一ぱいで気持がわるくなった。(中略)まるで交通地獄」。

 米の配給も遅れていた。「コンニャクの有ったのを四つ切って食べた。後はなにもないのだ。はたしてどうすれば良いのかわからぬ」「父が潤野から南瓜(かぼちゃ)を百円がと買って来た。それを一日中食った」「それ(南瓜)も高くて食えない。夕方やっと粉と米を四日分貰(もら)った」。

 そして8月15日。「今日は終戦第一週年記念日だ。作年(さくねん)の此(こ)の日あの時の怨(うら)みはアメリカの民主政治、自由政治によって日本再建の感激に変(かわ)った。我々(われわれ)は軍の不法をなじった。日本の政治を怨んだ。あれから一年変るも変ったものだ。さあ今から新しい日本を建設しよう」。食糧難にあえぎながらも、少年の気持ちは希望へと舵(かじ)を切っていた。

(嘉麻市碓井平和祈念館学芸員 青山英子)

    ■

 嘉麻市碓井平和祈念館が収蔵する戦争資料を学芸員の青山英子さんが紹介します。

福岡県の天気予報

PR

福岡 アクセスランキング

PR

注目のテーマ