あの日、何を報じたか1945/9/28【帰郷兵だけの「新しき村」 小屋掛けで籠城、国見岳を拓く】西日本新聞の紙面から

西日本新聞 福間 慎一

 〈戦後苦難を予想される解除兵のいばらの道を切り拓くべく帰郷兵ばかりが相寄り相扶(たす)けて「理想の村」建設に向かって再起出発せんとする雄々しい一団の人々がある〉

 続々と復員する軍人たちの動向は日々注目されていた。この記事は、見出しの通り郷里に戻った復員者たちの様子を伝えたものだ。

 〈これは先頃まで佐賀県西松浦郡東山代村久原に駐屯していた原大尉を隊長とする原部隊の人々で、終戦以来、将来に対するお互いの身の振り方についていろいろ相談した結果、将校十四名、兵九十名が大死一番、処生の道を農業に求めようと衆議一決、適地を探して集団移住し、開墾の鍬を打ち下ろすことに〉

 部隊は候補地を検討、約5キロ南の丘陵地を選んだ。〈同村滝川内の遥かに玄海を見下ろす国見岳の中腹に起伏して広がる六十町歩の高原に白羽の矢を立て、原大尉は早速、佐賀県耕地課を訪れて右希望を開陳した〉。県の担当課は大歓迎だった、ともある。〈同地は一部は雑木林、一部は原野の国有地で、一同ははじめ大仕掛けにならず小屋掛けで籠城、一尺一尺と堅実に荒野と取り組む方針〉

 しかし、この原部隊のその後は見つけることができなかった。

 1976年発行の「佐賀県開拓農業三十年史」に、現在の伊万里市東山代村滝川内地区とその周辺、合計3カ所の開拓の記録がある。最初期の入植者の氏名が記録されているが、45年の入植は2人だけ。入植者の中に1人だけ「原」の名前があるが入植は46年で、部隊の原氏との関連は分からない。

 三十年史はこの地域について、夏季は冷涼だが冬は積雪が1メートルにも及ぶと説明。人力でなんとか開墾を果たしたが、収穫物で得たお金は生活必需品の費用にしかならず、厳しい生活が続いたという。住まいの写真もあるが、屋根をササで覆っただけの小屋もあり、「朝起きると雪が布団に積もっていたというありさま」とある。

 伊万里市史によると、入植者への行政の支援も手薄で、離職者も続出したという。さらに、開墾による水源の変化や水利権をめぐり開拓者と従来の住民との間で争いもあったという。

 戦場で死線を越えて故郷に帰ってきた復員者たち。新天地での日々もまた、困難な闘いだった。(福間慎一)

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 〈〉の部分は当時の記事から引用。できるだけ原文のまま掲載。

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