あの日、何を報じたか1945/10/5【起ち上がる西日本 現地を観る 長崎県 己が住居に敢闘 廃墟に不均衡な明るさ】西日本新聞の紙面から

西日本新聞 福間 慎一

 〈災害のあるところ、復興が図られ再建が語られるのは当然であり、いかなる自然の暴威も戦争の禍乱も一朝にして一都市を永遠に葬るなどということは史上にもほとんど例を見ぬところであるが、原子爆弾に見舞われた長崎の惨状は今日再建を語るにはあまりに深刻なものがある〉

 九州各県の戦災復興状況を伝えた連載「起ち上がる西日本」。4回目のこの日は長崎県だった。反進駐軍につながる報道が規制される中、この記事は、目を背けられない被爆地の惨状をつづっている。

 被害施設が具体的に挙げられている。

 〈重工業では三菱の兵器、製鋼、製材、造船機械、電機鋳物の諸工場、帝国酸素ほか酸素会社二、ガス会社タンク一のほか群小協力工場八十余のほとんど全部。学校では瓊浦中学、鎮西学院中学、市立商業、神学校、盲唖学校、純真女学校、常清実践、三菱工青年、マリア学院のほか国民学校七、寺院教会では東洋一のカソリック教会たる浦上天主堂と聖徳、照圓の二古刹、その他長崎医大と同付属病院、市伝染病院、肺結核療養所、市火葬場、刑務所、浦上、長崎両駅から県庁までも烏有に帰すありさまで、市の三分の一は全く荒廃し去り、残る三分の二も例外なく屋根は壊れ、建具は吹き飛ぶという状態〉

 そして、当時の推定人口が26万人、戸数5万4000のうち、死者不明者は3万人、重軽傷者は8万人、民家の全焼・全壊が1万5000、一部焼損、半壊は残り全戸、〈全市に完全無欠の家は一軒もない〉と伝えている。後にもっと大きくなる数字だ。

 工場が消滅したため税収の見通しが立たず、復旧に大きな足かせとなったとの記述もある。

 〈終戦以来うち続く悪天候にさいなまれ、忍び寄る冷気に脅かされつつ、せめて雨露をしのぐだけでもと市民は己が住居の手当に苦闘しているのが現状である〉

 一方で〈電灯と鉄道の復旧は案外早かった。電信電話も徐々に通じつつある〉とも。

 記事は〈長崎県としての戦災はこれが全てではない〉として、軍都として激しい空襲にさらされた長崎県佐世保市にも言及。〈目抜きの大半を烏有に帰し(中略)敗戦による軍事的価値の喪失とともに同市の存立を根底から揺さぶりつつあり、この両市の再建方向はそれぞれの特異な立場に照らして注目すべきものがある〉と懸念している。

 〈両市ともいま混迷のさなかに連合軍の進駐を迎えて、街中はジープやトラックの輻輳(ふくそう)と散策する米軍将兵の快活な足取りに廃墟と不均合な明るさをみなぎらせている〉 (福間慎一)

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 〈〉の部分は当時の記事から引用。できるだけ原文のまま掲載。

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