佐賀にあった「幻の鉄道」 運行わずか16年…面影をたどってみた

西日本新聞 佐賀版 河野 潤一郎

 かつて佐賀県嬉野市内を電車が走っていたことをご存じだろうか? 大正から昭和にかけて嬉野温泉街(同市嬉野町)と塩田(同市塩田町)を結び、わずか16年で廃止になった「幻の鉄道」。当時を知る人や現場を訪ね、名残を探った。

 鉄道は肥前電気鉄道が運営し、大正4(1915)年に開業。嬉野-塩田間約10キロに九つの停車場を設置し、30分で結んだ。嬉野や今はない畦川内(あぜかわち)の湯治客など最盛期は年20万人を超す乗客を運んだようだ。ところが昭和6(1931)年末、廃止になった。

 まずは塩田町のNPO法人「塩田津町並み保存会」のボランティアガイド馬場清さん(78)の案内で鉄路の痕跡を訪ねた。「この写真の山はあの山。水路の位置も同じ」。塩田駅(停車場)があったという居酒屋前で当時の写真を手に馬場さんが言った。

 海運や宿場町として栄えた塩田。武雄から佐世保に向かう鉄道が塩田を通らなかったのは、当時の商工業者が反対したからだという。塩田駅から嬉野方面へ向かってみた。

 畦川内の温泉は湯温の低い鉱泉で、湯治客は宮の元駅から歩いて向かった。旅館は4軒あったそうだが今はその面影はない。宮の元の先から嬉野方面へ、電車は塩田川を渡る今川橋から右寄りに進路を変える。当時の美野駅前にある鮮魚店経営の女性(65)は「美野の停車場と言えばこの店と分かる」と話す。近所の池田妙子さん(87)は「昔は電車道と言うとった」。

 さらに嬉野方面に進み、大草野停車場跡へ。「家の前のブロック塀の所が線路だった。最終電車が嬉野に向かうゴーッという音がした」。乗車したことがある元教員の山下義男さん(93)が教えてくれた。車両が離合できる施設があった場所。「現在のJR長崎線の電車と同じような快適な乗り心地」だったという。

 山下さんは1931年の満州事変のころ、兵隊が大草野で住民に見送られるのを見た記憶があるという。山下さん宅の「線路向かい」に住む山下ユク子さん(92)は小学校入学前に祖母と嬉野温泉に行くため乗った。「電車に乗る恐ろしさもあり、泣いた覚えがある」。ユク子さんは子どもの頃、レールに耳を当てて電車が近づいてくる音を聞いたことがある。

 そもそも塩田駅は二つあった。鹿島市の祐徳稲荷神社への参拝客を運ぶ祐徳軌道(現在の祐徳自動車)の蒸気機関鉄道が塩田を経由し、駅は現在の嬉野市役所塩田庁舎前の国道交差点にあった。「町並み保存会」の西野泰朗事務局長(67)は「祐徳軌道の駅から100~200メートル離れた所に電車の塩田駅があったと、お年寄りに聞いた」と言う。

 居酒屋が当時の停車場ならその距離は約50メートル。嬉野に向かう塩田の停車場は本当にそこなのか-。取材を進めると、近くに住む小笠原ミチ子さん(95)は「赤っぽい電車が止まる駅や線路は一段高く、石垣を積んで囲ってあった」と当時の様子を説明した。小学校の遠足で乗車したそうだ。

 嬉野市郷土史研究会会員でNPO法人潮高満川(しおた)の芦塚典子さん(71)と現地に行くと、農地との境は石垣で囲んである。近所で生まれ育った芦塚さんは「小学生の頃にこの農地の区画整理があったが、人の手では石垣を取り除けなかったのでは」と推測する。

 塩田の引き込み線跡と思われる場所にはコスモスが風に揺れていた。当時撮影した写真と照らし合わせても面影が残り、背景の山との距離も変わりがない。

 嬉野市歴史民俗資料館に尋ねると、戦後に撮影された塩田町の航空写真を見せてくれた。線路跡が薄く写っていた。市教委の山口昌秀さんは鉄道について「地元の古老や郷土史家への聞き取り、現地調査を断片的に進めている」とし、塩田駅も石垣のある農地付近とみられるとの見解を示す。

 嬉野と塩田から電車が姿を消してから約90年になる2022年秋ごろ、九州新幹線西九州(長崎)ルートの嬉野温泉駅(仮称)を含む区間が暫定開業する予定だ。長い時を経て再び戻る鉄路はどんな物語を地域住民にもたらすのだろうか。

 (河野潤一郎)

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