ソ連兵の暴力から逃れ…引き揚げた家族7人 労苦を刻む姉の日記

西日本新聞 社会面 平山 成美

 戦後、きょうだいでずっと大切にしてきた日記帳がある。中国・大連で終戦を迎え、ソ連兵の暴力から逃れた家族7人が、長崎県佐世保市の浦頭(うらがしら)に引き揚げた記録。「紙の乏しい時代に万年筆1本でざら紙に残した日記。戦争を知らない孫たちにも、あの時代を伝える数少ない存在です」。きょうだいは日記を残した亡き姉をしのび、629万人が経験した引き揚げの労苦に思いをはせる。

 日記を書いたのは大分県臼杵市の篠田美佐子さん。2005年に80歳で亡くなるまで数十冊の日記帳を残した。最も古い1冊は大連を出発した1947年3月11日に始まる。それ以前の分はスパイと間違えられぬように焼いてしまった。美佐子さんは長女で、当時22歳。父広海さんは大連市の副市長で、家にはお手伝いさんがいた。そんな暮らしが敗戦で一変した。

 妹の久保田節子さん(85)、弟の篠田春海さん(82)=いずれも臼杵市在住=の記憶と共に、帰郷までの日々を日記でたどる。

    □   □

 三月十二日(水)晴 午前二時よりロスケの税関検査。六時半終了。クタクタに疲れ、ホコリにまみれてしまった。

 「ロスケ」はソ連(ロシア)の蔑称。美佐子さんは大連港でソ連兵による税関検査を手伝わされていた。荷物には制限があった。「羽毛布団を大事に持っている人がいてね。ソ連兵がナイフで切り裂くと、油紙に包まれたたくさんの時計が出てきたの。時計店の人だったみたい」。姉の言葉を節子さんは覚えている。

 街にあった日の丸は破られ、焼かれた。やがてソ連兵が窓を割り家に侵入し、腕時計を差し出すと出て行った。同じように奪ったであろう腕時計をいくつも重ねた兵隊も見た。暴行や略奪で命を落とした日本人も多かったと、後に知った。

 やっとたどり着いた船には日の丸がはためいていた。「ご苦労さま。ここは日本です。安心してください」。船長のあいさつを、きょうだいは忘れていない。待ちに待った出港の日。

 三月十四日(金)晴 出発の命あり俄(にわか)にざわめく。(中略)大久丸に午後七時乗船終了。夕焼のなつかしい大連港をされど、少しも感情がおこらぬは不思議なり。夕食なし。三千人乗船。

 船内には縄を巻いた石があった。航行中に人が亡くなると、誰かが「にわか僧侶」になりお経を唱え、遺体に石を結び海に沈めた。

 三月十七日(月) 夜十一時佐世保港外着。

 三月十八日(火) 喜びの胸を抑へて近よる港を眺める。(中略)注射、検疫に忙しい。

 三月十九日(水)晴時々曇り 六時半下船。検疫所にて男女分かれ手荷物の検査。種痘。DDT散布。(中略)ポンポン船にて美しい島々の間を抜けて、一時半針尾の収容所一号舎にはいる。

 港に近づく船から見えたのは「ピンク色が燃えるような桜」だった。厚生省の施設で数日を過ごし、柳ごうり一つと布団、手編みのリュックを携え、3月26日にようやく臼杵へ戻った。

    □   □

 浦頭には45年10月14日の1隻目以降、50年4月まで、博多港に次ぎ全国で2番目に多い約139万人が引き揚げた。船によってはコレラやチフスが流行し、帰国目前に力尽きた人も多い。港に近い墓地には、遺体や遺骨として戻った人も含め約6500人が眠る。

 日記帳は少し色あせたがほとんど傷んでいない。節子さんはめくるたび、当時の記憶をよみがえらせる。

 「大変なこともあったけれど、家族全員で帰れるだけで幸せだった。そうすることができなかった人がたくさんいたんです。忘れ去られたくないことです」

(平山成美)

長崎県の天気予報

PR

長崎 アクセスランキング

PR

注目のテーマ