あの日、何を報じたか1945/10/14【「母と子」数奇の満州脱出行 牛車代が一万円 若い娘はみな丸坊主】西日本新聞の紙面から

西日本新聞 福間 慎一

 〈石をもて追われるように満鮮から体一つで引き揚げてくる邦人の中でも、悲惨を極めるのは小さい子供を連れた母親たちである〉

 1945年10月13日午後1時、病院船有馬山丸は大陸からの傷痍軍人ら1275人と100柱の英霊とともに博多港に入港した。乗船者の中には満州の新京から帰郷を果たした母親たちもいた。記者は31歳の森さんと34歳の額田さんという2人の女性に話を聞いている。ともに語ったのは、とてもつらい体験だった。

 〈六十八の母、七歳と三歳の子供を連れた脱出は本当に辛いものでした〉。まず語ったのは森さん。8月10日に新京を出発、そこからソ連軍将兵の影に怯えながら、450人の引き揚げ部隊とともに帰国を目指した。

 〈食物はみな闇で買ったので四百五十名の一日分のまかない料は二千円かかり、私たちも着の身着のままだったので、一枚百五十円のシャツや八十円のズックを買いました。若い女の人はソ連軍が来るというのでみな坊主になり、(九月)二日に京城(ソウル)に行くつもりでまた無蓋車に乗ったが二日間動かず、雨は降るし子供は腹が減るので泣き続けでした〉

 動き出した列車も開城(北朝鮮南部)の手前でソ連軍に止められ、貨車の荷物をすべて掠奪された。男性が全員拉致されるという話を聞いていたが〈その晩三十八度線から北がソ連の受け持ち区域になって一人のソ連兵もいなくなり一同ホッとしました〉

 屋根がない貨車で10日間も過ごし、母も子供2人も中耳炎にかかった。その後も厳しい逃避行が続いた。〈京城まで一万円の牛車を十台雇って病人と年寄子供を乗せ、私たちは歩いて出発〉、その後も牛車やジャンク船に合計1万8000円を支払った。〈一晩で着くはずのものが三日もかかり、その間食事は一回、二日間雨でびしょ濡れなので子供の病気は重くなるばかり、他の人の子供も栄養失調で少しずつ死んでゆきました〉

 京城に到着したのは新京を出て1カ月以上たったおそらく9月16日、そこから釜山に列車で向かったが〈便所に行くことはおろか身動きもできず、子供が内地までもてるかどうか、そればかりを考えました。やっと釜山に着いた時には私は黄疸にかかり一行は全部半病人、たくさんの子供が肺炎、栄養失調で死んでいました〉

 〈四十日の間、食う物も食わず、乗り物は全部無蓋貨車、泣き叫ぶ子供を抱えて惨憺たるものでした。ゆみ子(三つ)はあす内地へ着くという前の日、十一日にとうとう死にました。千鶴(七つ)も栄養失調症で重態です〉

     ◆     ◆

 額田さんも新京から子どもの正建ちゃんとともに脱出したが、正建ちゃんはたどり着いた釜山で栄養失調のため亡くなったという。額田さんは、次のように話している。

 〈満州から釜山まで二カ月に上る労苦の旅も子どもさえ元気でいてくれたら物の数でありません。汽車の中での食糧不足に引き続いて、宿泊所に落ち着いてからの食べ物もほとんど大人さえ喉を通らないほどまずいもので、このため三、四歳から下の子供たちは激しい下痢ののち、栄養失調でどんどん死んでいきました。せめて内地に帰ったら栄養の回復ができると頼みにしていても、子供の生命はそれを待ってはくれません。いまこのような子供と母親が釜山の病院にはひしめいています。なんとか助けてあげる方法はないものでしょうか〉

(福間慎一)

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 〈〉の部分は当時の記事から引用。できるだけ原文のまま掲載。

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