藩主の立像がない理由 上野和重

西日本新聞 オピニオン面 上野 和重

 「月形洗蔵が薩長同盟の真の立役者ですよ」。福岡市指定の史跡「平尾山荘」でそんな話を聞いた。幕末の歌人、野村望東尼(ぼうとうに)の隠居所で、ここで高杉晋作ら勤王の志士をかくまっていたという。福岡藩士の洗蔵は「春雨じゃ、ぬれていこう」のせりふで知られる劇「月形半平太」のモデルといわれる。薩長同盟は坂本龍馬が取り持ったとばかり思っていたが、福岡藩にも先駆者がいたというわけだ。

 「明治維新は薩長土肥の活躍で成し遂げられた」。鹿児島出身の私はそう学んだ。福岡も同じらしく、地元出版社の社長、遠藤薫さんは「幕末、明治に筑前は何もしなかったのか」と思っていた。「積年の謎」を解くため資料やゆかりの地を取材。山口県で「望東尼さんが高杉をかくまってくれたから決起できた」「筑前が長州を助けてくれたので維新がなった」と言われ、福岡藩も維新で役回りを果たしたと考えを改めたという。

 幕末のイメージは湧かない福岡藩だが、NHK大河ドラマで描かれた黒田官兵衛(如水)や息子長政は全国的に知られる。そもそも「福岡」という地名を付けたのが官兵衛親子だ。福岡城を中心とした城下町を形成、黒田家が治めた270年を土台に福岡は発展した。

 その官兵衛と長政について、ふに落ちないことがある。二人の立ち姿の銅像がないのだ。市総合図書館に官兵衛の「胸像」があるのみである。これも2007年になって民間団体が寄贈したものだ。

 藩の関係では、黒田節のモデルとなった母里太兵衛(ぼりたへえ)や幕末の志士・平野国臣(くにおみ)、健康指南書「養生訓」を著した貝原益軒(かいばらえっけん)らが立つ。いずれも黒田家家臣で大正から昭和に建てられた。

 領主への“冷遇”はなぜか。「藩主黒田長溥(ながひろ)が藩の勤王派、筑前勤王党を弾圧した『乙丑(いっちゅう)の獄』が影響している」と地元の歴史小説家、筑前筑後さんは指摘する。「福岡の有力者は筑前勤王党の流れをくむ人が多い。先輩を殺害した黒田に良い感情を持てない」というわけだ。郷土史ファンの間では、商人の町博多と武士の町福岡を隔てる『桝(ます)形門』を造ったことや、ひどい搾取があったとして博多商人が黒田を受け入れていなかったからではないか、という見方もある。

 14年に始まった福岡城整備のための寄付金集めが当初、苦戦していたというが、こうした事情もあるのか。

 銅像は歴史を透かしてみる手掛かりの一つ。日本で最も勢いのある町といわれる福岡の源流をたどることもできる。 (クロスメディア報道部)

PR

社説・コラム アクセスランキング

PR

注目のテーマ