新ガリバー旅行記(6) コーランと論語【中村哲医師寄稿】

西日本新聞

 <2000年7~8月に本紙朝刊に掲載された中村哲医師の寄稿連載随筆「新ガリバー旅行記」(全50回)>

 ペシャワルでの生活は私の懐かしかった時代の記憶をふと甦(よみがえ)らせることがある。親孝行の美徳や、お年寄りへの尊敬などがまだ厳然と生きている。マドラサ(イスラム教の寺子屋)に行くと、子供たちがコーランを暗誦(しょう)しながら文字を学んでいる。これも何だか懐かしい。

 私も幼少時、論語の一部を素読で暗誦した。理解の程は怪しいが、その記憶は生涯つきまとい、自分を内側から律する規範となるのは本当だ。日本人は宗教に寛容で、信仰心が薄いという話をよく聞かされた。しかし、私たちの伝統的宗教心と道徳律は漢語教育に伴う論語の膾炙(かいしや)によってかなり支えられてきた節がある。戦後教育で漢文が廃れ、極端な国語教師は「日本はもうすぐローマ字に変わるから漢字など覚えなくともよい」と唱えていた。実際、中学で初めて漢文が出てきたとき、私が得意げに「子、のたまわく!」と読むと、注意された。「・のたまわくではない。・いわくが正しい」

 このことは象徴的だった。孔子はそれほど偉くなくなったのだ。私はキリスト教信徒だが、分析的な最近の聖書注解書よりは、論語的教養を背景とする山室軍平や内村鑑三あたりの方がピンと来る。庶民の浪花節などもそうで、義理人情物語の背景には明らかに「仁」が核にあり、忠孝道徳の理想を謳(うた)いあげるものであった。これが上から下まで日本人の精神的支柱を形成していたらしい。極端な戦後教育の転換は、全(すべ)て古いものを封建的という烙印(らくいん)を押して一掃し、日本人から精神性を奪い取った。温故知新というが、日本は古い道徳に代わる何ものも準備せず、やたら古い権威の分析をしたり、仮面をはぐのみであった。そのつけは今来ている。日本全国の宗教法人が二万団体、中には稚拙な方法で人を罠(わな)に落とすようなものも少なくない。人間の非論理性は本源的なものである。しかし、それは長い間に培われた伝統を破壊しては新たな迷信を捏造(ねつぞう)するだけだ。私は、決して過去を賛美しないが、それに倍する新たな偽りにも与(くみ)したくない。

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