引き揚げの悲喜を一冊に 福岡の団体が23人の手記収録

西日本新聞 社会面 小林 稔子 平山 成美

 終戦時、日本が植民地化していた旧満州(中国東北部)や朝鮮半島などに約660万人が取り残され、多くは命からがら帰国した-。そんな引き揚げ者ら23人が壮絶な体験をつづった「あれから七十五年」(図書出版のぶ工房)が今月、刊行された。企画した市民団体「引揚げ港・博多を考える集い」(福岡市)の事務局長、堀田広治さん(83)は「引き揚げの歴史を通して、戦争の悲惨さや平和の尊さを考えるよすがにしてほしい」と願う。

 初めて手記を寄せた朝山紀美さん(78)=静岡県在住=は、家族と朝鮮半島の元山(ウォンサン)から引き揚げ、福岡市の孤児収容施設「聖福寮」で過ごした幼い日々を記した。本には、初代寮長を務めた朝山さんの父で医師の山本良健さん(享年81)、保母のリーダーとして尽力した石賀信子さん(享年102)の手記も収録。併せて読むと、当時の生活が立体的に浮かび上がる。

 聖福寺の片隅に建てられたバラックの寮には、栄養失調や病気の孤児164人が暮らした。痩せ衰え、ごみをあさる子もいた。医師や若い保母らの懸命な介助で、心身ともに少しずつ健康を取り戻していった。

 「確かに、そこに家庭があったんです」。当時4歳だった朝山さんは鮮明に覚えている。元旦には餅をつき、夏は海水浴へ。月がきれいな夜には月見に出かけ、星を見ながらご飯を食べた。質素だが、温かな愛情があふれていた。

 保母の石賀さんは福岡女学院の教師を辞め、不眠不休で子どもの世話に当たった。保母たちの楽しみの一つが体重測定。孤児の体重が増え、歩けるようになると歓声も上がった。

 朝山さんが最後に石賀さんに会ったのは2年前。寝たきり状態だったが、聖福寮での集合写真を見せると、子どもたちの名前をつぶやき、写真を握りしめて離さなかった。石賀さんは昨年8月に他界。朝山さんは「引き揚げ孤児を生んだ戦争のむごさを知る人は減り、私にも残された時間は少ない」との思いが募る。

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 定年前後から約20年かけてしたためた手記を託した人もいる。福岡市博多区の上村陽一郎さん(84)は、旧満州から佐世保港(長崎県佐世保市)に引き揚げた。

 敗戦で、穏やかな暮らしは一変。ソ連兵は機関銃を四方八方へ撃ち、日本人経営の店では略奪があった。八路軍と国民党軍との市街戦が始まると、混乱に拍車がかかった。

 1946年9月に新京を出発。上村さんと父が背のうを担ぎ、母は幼い乳飲み子らを連れた。「はぐれても食べ物に困らないようにと、チマキを風呂敷にくるんで腰に巻き付けた」。原野を無がい車で移動する間、襲撃におびえた。引き揚げ船「筑紫丸」に詰め込まれた後の記憶はない。

 「日本ぞー」。叫び声を聞いて甲板へ上がると、大人たちの股の間から山が見えた。地平線が続く満州では見たことのない景色。「あの時に見た緑色は忘れられない。腕をつねって、夢か現実かを確認した」

 「戦争が、原爆や空襲だけではないことを知ってほしい」と、上村さんは思う。

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 本は引き揚げ者12人と援護活動に従事した11人の手記で構成。うち19人は、25年前に発刊した「戦後50年-引揚げを憶(おも)う」から、体験を改めて後世に継承しようと転載した。 (小林稔子、平山成美)

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