あの日、何を報じたか1945/10/22【大学出に就職の「狭き門」 風当たりの強い工学士 舞い込む予約の断り状】西日本新聞の紙面から

西日本新聞 福間 慎一

 〈「大学は出たけれど」かつてこんな言葉が、その時代を表象したものであったが、再び終戦後の大学を就職難の嵐が吹きまくることになった〉

 終戦1カ月後の9月15日に九大を卒業したという学生たちが〈途方にくれている〉として、就職状況を取材している。見出しの「予約の断り状」は今で言う「内定取り消し」のことだろう。

 〈まず最も風当たりの強かったのはなんと言っても工学部であり、わけても困っているのは航空学教室だ。戦時中、工学部卒業生といえば卒業前からすべて就職口は予約済みで、手取り足取り引っ張りだこのありさまで、卒業を控えて就職探しに慌てるようなものは一人もないといった状態であったが、終戦とともに既に決まっていた会社からも続々、就職お断り状が舞い込み、それはまだよい方で、自分の始末に忙しくて断り状も来ないまま立ち消えになったものが大部分というありさまだ〉

 これまで「絶対安泰」と言われていた業界が、その意義を失う-。現代の企業でも起きていることではあるが、終戦という社会の大転換が与えた衝撃の大きさは計り知れない。

 〈特に航空関係は、教室では機体の研究が主だからつぶしがきかず、エンジンなら自動車にでも転向できるが、これでは全く行くところがなく、どこからも締め出しの体である〉

 学生たちの競争相手は学生たちだけではなかった。

 〈造船は小型船があるので、この方面にはける望みもあるが、復員や多数の軍需工場であぶれた技術屋たちで空いた椅子も満員になるだろうし、一寸望みもない。やや望みがあるのは機械、電機で、真空管関係の店でも開いて修繕屋になろうなどというのもいる〉

 記事では、学生たちは〈まだ事態の落ち着くところを見守っている〉状態だと伝えている。

 軍需産業に直結し、大きな影響を受けていた工学部に対して、文系学部はどうだったのか。記事はこう続く。

 〈法文学部では卒業生四十七名中、就職したのはわずか六名。それも官庁のみで、軍関係の会社工場からは工学部同様断り続出で、今年はここ数年少なかった中等学校方面に教諭としてはけるものもあるようだ。学校も復員の先生たちが元の椅子に帰るので、そう楽観できず、大学出の国民学校の先生などもまた珍しくない時代が来るのではないかと考えられる〉

 記事冒頭の「大学は出たけれど」の映画が公開されたのは1929年のことだった。大恐慌、終戦、高度成長、バブル、就職氷河期、そして新型コロナウイルス禍-。この百年近く、学生たちはいつも時代の波に翻弄(ほんろう)されながら、進む道を決めてきた。これからも、それは変わらないだろう。 (福間慎一)

   ◇    ◇

 〈〉の部分は当時の記事から引用。できるだけ原文のまま掲載。

PR

社会 アクセスランキング

PR

注目のテーマ