戦地の緊迫感じられず…敵地の人と意外な関係 日中戦争の兵士の日記

西日本新聞 筑豊版

モノが語る戦争 嘉麻市碓井平和祈念館から(20)

 「明日出船のため一ヶ月分の糧食を受領。自動車に積載。午前十時宿舎を出発○○河到着。下給品及糧秣(りょうまつ)(※食料と軍馬のまぐさ)を各自に分配。船に積込む。同時に各自の受持船に分乗した。俺が行くと船員等は先生来々(シイサンライライ)と喜んだ」

 便箋に記されているのは日中戦争に従軍した陸軍兵、岸本静雄(嘉麻市)の20日間にわたる輸送勤務の毎日である。地名は○○と伏せられ具体的な場所は特定できないが、数十隻の中国人の船で大河を奥地へと向かったことが分かる。

 乗り込んだ船の船主、徐廣與とその息子徐仁山、3人の苦力(クーリー=中国人の下層労働者)と寝食を共にした。「徐仁山が俺の寝るせまい所に無理に入って来て色々(いろいろ)と話をする。俺も支那語を少し、徐仁山も日本語知って居(い)る様(よう)な訳で支那語の字引を出して、どうなり話が出来(でき)た。徐仁山が私(オデ)日本語わからん、先生支那語わからん、互(たがい)に勉強をしようと言う。俺も同意した」。岸本は先生と呼ばれ、初日から友好な関係であったようだ。

 途中、船主の家でもてなしを受けたり、徐仁山と一緒に買い物に出かけたり、「他の船で子供が生れた様だ。赤子の声が聞えて居る」などと戦地の緊迫感はあまり感じられない。20日目には互いに謝意を表して別れているが、目的地では爆撃で両親と家をなくした子どもが日本兵の風呂を沸かし、残飯で日々を送っていた。日記には敵地の人々との意外な関係がみられる。

 妻子を残して出征した岸本は中国人の子どもを見てわが子を思うこともあったようだ。妻へ宛てた手紙には十五夜の月を眺め、「御月様ばかりは内地も又此(またこ)の戦の中友邦の上も変わりないので内の者も今頃は誰かが此の御月様をながめて拝んで居るだろうと思えば尚(なお)なつかしく是(これ)が鏡であればと思うね」と家族への思いを募らせている。

 その後兵役を離れていた岸本は1944(昭和19)年再び召集され、硫黄島戦で戦死した。再召集の時、「今回は行きたくないなあ」と妻に漏らしたという。

(嘉麻市碓井平和祈念館学芸員 青山英子)

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 嘉麻市碓井平和祈念館が収蔵する戦争資料を学芸員の青山英子さんが紹介します。

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