新ガリバー旅行記(32) 日本のテキストに絶句【中村哲医師寄稿】

西日本新聞

 <2000年7~8月に本紙朝刊に掲載された中村哲医師の寄稿連載随筆「新ガリバー旅行記」(全50回)>

 一九八三年、私はペシャワル赴任に先立って「熱帯医学」を修めるため、英国のリバプール・熱帯医学校に学んだ。

 学校では、世界各地からつわものが集まり、彼らとの交流も、その後の働きに大いに役立った。膨大な詰めこみ学習は医学生時代以上で、閉口した。だが、多様な科目の中で、医動物(病気を媒介する昆虫などの節足動物)は、昆虫採集の経験が役立った。寄生虫の方は、かつて日本でも親しいものが多かったので、欧米人の医師よりは苦にならなかった。

 寄生虫病学の教授は六十歳半ばの英国紳士、ビルマ(現ミャンマー)戦線で日本軍との戦争に従軍、そのとき以来熱帯医学の道に入ったという。私が日本人だと知り、親しげに話しかけてきた。「日本人は学校が始まって以来、君が二人目だ」という。

 「いや実は、君を香港かシンガポール出身だと思っていた」と述べ、懐かしそうにビルマの思い出を語った。イラワジ川を挟んで日本軍と対峙(たいじ)、日本兵の勇敢さに畏敬(いけい)の念を抱いた。「だが、投降を拒んだのが理解できなかった。最後の一兵までというのは大抵レトリックだが、英国の戦史上、アフリカのズールー族と日本兵だけだ」という。

 教授の最大の疑問は、日本人が何故(なぜ)はるかリバプールまで学びに来るかだった。私が「日本で熱帯病の臨床を学ぶ施設が皆無だ」と伝えると、「それはおかしい。あのとき日本も我々(われわれ)以上に熱帯病に苦しめられたはずだ」といぶかる。そして、これを見てくれと、地図入りの寄生虫病学書を突きつけた。

 これが何と、戦前の日本語の本を英訳したもの。座右の銘だという。私もまた絶句、教授と同じ疑問をいだいた。学問の分野だけでなく、住血吸虫症の根絶モデルなどは一九三〇年代に日本で完成、世界各地で踏襲されている。誇りにしてよいのか、恥なのか分からない。おそらく、日本の閉鎖性だろう。自国で問題が去れば、重視しないのである。国際貢献・国際化ブームが程なく日本で起きたが、何だか眉唾(まゆつば)のようで仕方なかった。

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