新ガリバー旅行記(34) 偏見の起源【中村哲医師寄稿】

 <2000年7~8月に本紙朝刊に掲載された中村哲医師の寄稿連載随筆「新ガリバー旅行記」(全50回)>

 近代科学以前、ハンセン病も天罰や悪霊のせいだとされた。「うつる」という言葉自身が、その面影を留(とど)めている。文字通り病気が「うつった」のであり、病原菌が感染したのではなかった。うつる病因は精神的、道徳的なもので、日本の場合、らい者に施しをしないとうつると信じられた。光明皇后が憐(あわれ)みをかけ、その全身の膿(のう)を吸い取ると、患者が突然、菩薩の姿を現し、その善行をほめたという言い伝えもある。そこには単なる差別でなく、畏怖(いふ)があった。

 一世代前までの偏見は、実は、明治時代に強化され、無慈悲になったものだ。日本は舶来ものに弱い。四年前に廃止された「らい予防法」の基礎になる法は、一九〇七年、日露戦争直後に作られたが、このいきさつも外圧による。当時超大国であった英国大使館の前で一人のハンセン病患者が行き倒れになった。「貴国は一等国になったと言いながら、らい者を野放しにするのか」という英国大使の強硬な抗議で、政府が動いた。

 今でこそ細菌の存在を当然と皆信じているが、欧米でさえ病原菌の発見は十九世紀末の出来事である。一九〇七年ごろは、近代医学の最先端に細菌学があった。しかも、相手は今を時めく英国とあっては、十分な説得力をもって受け入れられた。隔離収容対策は「先進国」のとるべき当然の道だったのである。

 他方、国民教育の浸透で、祟(たた)りだの、天刑だのが迷信だと否定されたかと言えば、案外そうでなかった。迫害しても祟らないことが明らかになっただけである。お上が率先して患者狩りを行い、人々が収容に協力したというのが実相だ。対策は内務省の管轄下で、疾病としてだけではなく治安問題とみなされた。後に非難された隔離収容は、他ならぬ欧米諸国から輸入されたものだ。患者は行き場をさらに失った。これが日本の近代化の一端である。鹿鳴館では民のひんしゅくを買ったが、いじめでは官民協力した。

 沖縄サミットを見ると、鹿鳴館時代を彷彿(ほうふつ)させる。その陰で「次なるいけにえは誰(だれ)か」と思えば、何やら薄ら寒くなる。

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