「学びたかったろう」戦災死の先輩忘れない 後輩が27年ぶり追悼会

西日本新聞 社会面 河野 潤一郎

 太平洋戦争中の学徒動員先で犠牲になった先輩たちの無念さを次世代に伝えたい-。佐賀県鹿島市の県立鹿島高そばの公園で24日、戦災死した女学生10人の追悼会が27年ぶりに開かれる。同級生らに呼び掛けた同高2年の川崎花笑(はなえ)さん(16)は「戦争の悲惨さや愚かさを、体験した人だけで終わらせてはいけない」と決意を込める。

 「友よ安らかに」。公園にある慰霊碑にはこう記され、亡くなった10人の名前が刻まれる。動員先は長崎県大村市の第21海軍航空廠(しょう)。「東洋一」と呼ばれた軍需工場で戦闘機の製造や修理を担い、九州各地から数千人の学徒が集まった。高校の前身の一つ、県立鹿島高等女学校からは約300人が組み立てや修理作業に当たったとされる。

 当時の学籍簿などによると1944年10月25日と45年7月30日の米軍の空襲で、鹿島高女の8人と卒業生の女子挺身(ていしん)隊1人、前身の一つ鹿島立教実業学校の1人が亡くなった。いずれも当時15、16歳で、鹿島高女の創立百周年記念誌は、防空壕(ごう)や工場での「爆死」や、寮での「銃撃死」が死因と記録する。

 川崎さんがこの事実を知ったのは8月。7月に第23代高校生平和大使に選ばれたが、新型コロナウイルスの影響で街頭署名などの主だった活動ができなかった。「身近なところから何かできないか」と、記念誌をめくった。

 同年代の女子学生が空襲の犠牲になり、高校近くには慰霊碑があることを初めて知る。慰霊碑の除幕式があった1993年を最後に追悼式典が開かれていないことも判明した。「もっと学びたかっただろう。悔しくつらかっただろう」。8月末、川崎さんは追悼会を開こうと決意した。

 同級生たちも、各クラスに犠牲者遺族に関する情報提供を呼び掛けるなど後押しした。早津咲良さん(17)は「時代が違えば自分が犠牲になったかもしれない。今の生活が当たり前じゃないと強く思った」。大鋸(おおが)亜依さん(17)も「後世に伝える義務がある。校内外に発信していく」と思いを共有する。

 慰霊碑前で開かれる追悼会には、鹿島市の小笠原百代さん(85)も参列する。姉の織田妙子さんは鹿島高女在学中に空襲の犠牲になった。歌がうまく、優しい姉だった。佐賀県太良町の実家では戦時中に父母が亡くなり、残されたきょうだいで戦中の苦境を乗り越えた。「後輩たちが思い立ってくれ、姉も喜んでいると思う」と心待ちにしている。追悼会では川崎さんが平和への誓いを読み上げる。「これから私たち世代が、戦争という過ちを繰り返さないためにどう生きていくか。犠牲者や遺族に思いをはせて言葉にしたい」

(河野潤一郎)

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