空白の紙面を胸に刻み 水江浩文

西日本新聞 オピニオン面 水江 浩文

 何度振り返っても痛々しい。だからこそ、目を背けず胸に刻む必要があると思う。

 昭和11年(1936年)2月27日付(26日発行)の福岡日日新聞(西日本新聞の前身)夕刊である。1面トップは何と白紙(空白)だった。

 重大な記事が突発的な理由で削られたことは容易に想像できる。26日の早朝、陸軍の青年将校が兵士を率いて決起し、首相官邸をはじめ政府の中枢と要人を襲撃した。二・二六事件だ。「西日本新聞百三十年史」によれば「福日紙は直ちに二頁(ページ)号外を発行し速報したが、報道管制され、同日夕刊の一面トップは削られて空白であった」。

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 「終わりの始まり」と言うべきか。福日の受難は、これから深刻化する。事件発生直後、社会部のキャップが福岡県知事と同警察部長から呼び出された。知事は「福日の精神は十分尊重している」が、「五・一五事件の時とは情勢が変わって…現在の状況下では新聞社の存立にかかわる」と指摘し「内務大臣の指示」として社説原稿の事前提示を求めた。検閲である。

 福日側は受け入れた。社内にも内密にされ、社説原稿は警察へ届けられた。知事と警察部長が原稿を読み、内務省警保局長に電話で内容を伝えた。「原稿に手が加えられたことはなく、事前提示は二十日間ほど続いた」と「百三十年史」は伝えている。

 福日は「沈黙」した。4年前の五・一五事件で主筆の菊竹六皷(ろっこ)が直ちに筆を執って一連の論説で軍部の暴走を批判し憲政の擁護を訴えた「雄弁」とは雲泥の差である。

 以後、福日と西日本新聞(太平洋戦争中に九州日報と合併し発足)は他の新聞と同様、軍部や政府と一体となって戦争遂行に協力していく。大本営発表を垂れ流し、国家権力に不都合な情報を隠すことで読者を戦争へ扇動したと言っても過言ではあるまい。

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 日本学術会議が推薦した会員候補6人の任命を菅義偉首相が拒否した。6人は政府の方針や法案に反対したことがあるが、理由を首相は明らかにしていない。見過ごせないのは学術会議と新聞の共通点だ。学術会議は科学者や研究者が戦争に動員され、協力した反省を原点に発足した。戦争や軍事目的の研究を拒否する声明を繰り返し出しているのは、この教訓に基づく。

 戦争遂行に協力した過去を持つ新聞と同様の体験を踏まえ、独立性を旨に戦後の再起を期したといえよう。戦争の悲惨な経験と、そこから学んだ痛恨の教訓を「昔話」にしてはならない。 (論説副委員長)

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