どんな思いで戦火に散ったのか、友よ安らかに 「平和への誓い」全文

西日本新聞 河野 潤一郎

 朝夕は肌寒くなり、この旭ケ岡も日一日と色を濃くしていく季節となりました。本日はご多忙中にもかかわらず、佐賀県立鹿島高等女学校と鹿島立教実業学校の戦没者追悼会にご出席いただき、誠にありがとうございます。今日こうして、ささやかな小さな会ではございますが、この会を挙行できますことを心からうれしく感じます。戦没者のみ霊に深く祈りをささげます。

 戦後75年を迎える今年の夏、私は空爆などによる10名の女学生の死の事実を知りました。現鹿島高校の前身に当たる鹿島高等女学校と鹿島立教実業学校の皆さんたちは、学徒動員令などにより長崎県の大村航空廠(しょう)へ動員され、特攻機の部品作りや修理などに従事されていました。

 厳重な監視下に置かれ、連日休みなく行われる昼夜交代の過酷な労働、甘えは一切許されない環境だったということも学校に残る記念誌を通じて知り、衝撃を受けました。そして、動員から1カ月後の1944年10月25日、同航空廠は米軍B29の総攻撃を受け、300名以上もの人が命を落としました。この中に、この鹿島の女学生7名と卒業生1名もいらっしゃったのです。翌、終戦の年の7月30日には、同じ大村で米軍の銃撃により2名の方が亡くなられています。

 頭上に鳴り響くB29の金属音や腸を揺するような爆発音、気がおかしくなりそうなサイレンの中、逃げ回ることがどれだけ怖かっただろうと思うと涙せずにはいられませんでした。まさに、今の私たちと同じ15歳、16歳の学生です。彼女たちがどんな気持ちで古里、親元を離れ、どんな気持ちで毎日工場で働き、どんな気持ちで戦火に散っていったのか、憧れの女学校に入学し、これからもっともっと多くのことを学びたかったでしょうし、思い描く将来もあったのではないでしょうか。もしかすると彼女たちは、心の中の希望すら排除しなければならない状況にあったのかもしれません。私たちに容易には想像できないような苦しみと悔しさがあったことだと思います。

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