「立派な戦死」と告げられ…戦没者遺族の悔しさ レイテ沖海戦76年

西日本新聞 社会面 竹中 謙輔

 76年前の10月25日、旧日本海軍の重巡洋艦「鳥海(ちょうかい)」がフィリピン・レイテ沖に沈んだ。当時の艦長田中穣さん(享年47)の長男暁(さとる)さん(92)=長崎県佐世保市=は24日、同市の戦没者追悼式に参列し、鳥海の乗組員らの慰霊碑に手を合わせた。コロナ禍で迎える父の命日。最期までかじを離さなかったという父の胸中と、自身や遺族たちの苦難の歩みに思いを巡らす。「戦争は絶対に駄目だ」と固く心に誓って。

 24日午前11時半、同市の東山海軍墓地。秋空は澄み切っていた。喪服の暁さんは階段の手すりをつかみながらゆっくり歩を進め、慰霊碑に向き合った。「父よりも亡くなった乗組員の霊を慰めています」

 「お父さんは駆逐艦『藤波』に乗ることを拒んだんです」-。戦後、複数の研究者から教えられた。

 鳥海は1944年10月、米空母艦載機部隊の攻撃を受け、沈み始めた。穣さんは乗組員を藤波に移し、一人残った。その後、藤波も砲撃を受けて沈没。慰霊碑は鳥海830人、藤波130人の戦没者のために建立された。

 「日本はいよいよ戦争の状況が良くない。長男だから家族を頼むぞ」。穣さんに掛けられた最後の言葉。亡くなる前年ごろ、当時住んでいた東京で行われた姉の結婚式でのことだった。軍服に勲章を着けた姿が目に焼き付いている。

 疎開先の岡山県の学校で、穣さんの訃報に接した。「お父上は立派に戦死された」と教員に告げられた。

 終戦後に母、姉、弟と佐世保へ。米海軍佐世保基地から払い下げられた鉄くずを売った。結婚して2人の息子に恵まれ、衣料品問屋の仕事を経て70歳近くまでホテルマンとして勤務。父のことを振り返る余裕もないほど働きづめだった。一昨年、長年連れ添った妻が他界。コロナ禍の今年は1人家にいることが多く、穣さんと「対話」した。

 鳥海の電波探知機を新調する予定だったが、古いままフィリピン沖へ向かったという。「日本が負けると知って向かったのではないか」。口癖は「アジアの国と仲良くしないといけない」だった。任務と信条のはざまでもがき「多くの乗組員を背負って苦しかっただろう」。

 自身の来し方を振り返ると「日本という国に振り回された」と悔しさをにじませる。陶芸の絵付けが趣味。平和な世であれば、違った人生を歩めたかもしれない、と思う。

 海上自衛隊のイージス艦「ちょうかい」は鳥海の名を引き継ぎ、佐世保港を母港とする。ちょうかいの若い隊員と交流することもあり、ただただ「平和であってほしい」と願う。

 最近の政界を見ていると危惧が募る。「政治家が国民に説明できないことをやってはいけない。間違った道を歩み、戦争に突入した歴史を知ってますから」

(竹中謙輔)

 【レイテ沖海戦1944年10月、日本占領下のフィリピン・レイテ島周辺海域で米国などの連合軍と旧日本海軍が繰り広げた戦闘。日本の連合艦隊は「武蔵」など戦艦3隻、空母4隻、その他の「鳥海」を含む艦艇多数が沈没。約1万人が死亡し、連合艦隊は事実上壊滅。神風特別攻撃隊が初めて出撃した。

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