筑前琵琶「最後」のバトン託したい 修復師ドリアーノ・スリス【動画あり】

西日本新聞 加茂川 雅仁

シン・フクオカ人(6)

 人生は偶然の連続だ。それを必然に変えるかどうかは、自分次第なのだろう。

 ドリアーノ・スリス(73)が初めて来日したのは、1974年のことだ。故郷イタリア・ローマで知り合って結婚した妻の里帰りで、福岡市にやってきた。

 「いつまでいるか、何をするか、先のことは考えていなかった」

 しかし、ある日、ラジオから流れてきた音色が運命を変えた。筑前琵琶だった。生まれて初めて耳にする旋律に、心を揺さぶられた。その後、日本で唯一の筑前琵琶の修復師として生きることになる。

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 第2次世界大戦の終結から2年後、地中海に浮かぶサルデーニャ島で、7人きょうだいの末っ子として生まれた。古代の巨石遺跡群や独特の民族文化で知られる島で、両親の故郷だった。生後間もなく一家でローマに移ったので記憶はないが、オリジナリティーを大切にする文化が、自分の生き方に「影響してるかも」と思うこともある。

 16歳から国立の音楽学校でクラシックギターを学んだ。4年目のある日、人形劇団の友人から人形遣いの代役を頼まれる。

 断りきれず1週間ほど手伝っていると、面白くなってきた。そんな時に座長から「劇団に残ってほしい」と懇願される。あっさり、退学を決断した。

 「人は1回しか生きていけない。やりたいことをやれ、と両親からよく言われていた」

 祖国を代表する芸術家ダ・ヴィンチも、ジャンルにとらわれず何でもやった。

 「私も興味が湧いたらやってみたい性格。全てはつながっているから」

 その後、独立して劇団を旗揚げ。音楽学校での経験を生かして自分で作曲し、シナリオも書いた。

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 劇団と並行して、友人の家具工房で16~17世紀のルネサンス様式家具を修復する手伝いもしていた。工房は前衛的な装飾で、ドリアーノが人形劇用に作った「手」がいくつか壁面に飾られていた。

 その前に立ち止まり、見つめている女性がいた。初めて出会った東洋人の女性―後に妻となる毛利一枝(76)だった。

 グラフィックデザイナーだった一枝は、勉強のため半年ほどかけてヨーロッパ・中近東を旅していた。帰国後は文通を続け、再びローマにやってきて結婚。2年後、そろって日本に向かった。

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 筑前琵琶の音色は「西洋にはない現代音楽」の魅力があった。知人のつてをたどって出会ったのが、筑前琵琶職人の吉塚元三郎(福岡県無形文化財)。当時は80歳くらい。聞けば後継者がいないという。

 軽い気持ちで「教えてください」と言うと、吉塚はじーっと顔を見て言った。

 「明日から来い」。その瞬間、道は決まった。

 日本語もろくにわからず、道具の名前も知らない。しかも師匠は博多弁。「ノコッタイ」と言われて、長い間、ノコギリのことを「ノコッタイ」と覚えていたくらいだ。

 琵琶は部品を組み立てるのではなく、1本の木を削って作られる。だから一つ一つ形も音色も違う。職人のオリジナリティーが凝縮された「音の出る彫刻なんです」。

 木ネジが壊れたら、同じ年代の木材を探して自分で削る。バチで傷ついた部分は、ぬれた布の上から焼きゴテを当て、蒸気でつぶれた木の繊維を元に戻す。削って「修理」すれば見た目は元に戻るが、それでは音が変わってしまうのだ。

 ひたすら師匠の背中を見て覚える日々。気づけば5年が過ぎていた。

数え切れないほどの種類の工具に囲まれ、筑前琵琶を修復するドリアーノさん(撮影・三笘真理子)

 師匠が他界すると「最後の修復師」となった。だが2年前、脳出血を患い3カ月入院。自分が弟子入りしたころの師匠と、同じ立場にいることを自覚した。

 「技術をつながなければ。弟子を育てたい」

 今春、クラウドファンディングで資金を募り、「琵琶館」と名付けた工房教室の開設計画をスタートさせた。もう一つのライフワークとして運営してきた交流施設「イタリア会館・福岡」(福岡市中央区今泉)の隣に、年明けには完成する予定だ。

 2人が弟子入りし、琵琶について学びたいと十数人が集まってきた。道具の使い方から修復の方法まで、3年ほどで習得させるのが目標だ。

 「多くの人が技を競い合うことで、筑前琵琶は伝統を継承しながら広がっていく。文化とはそんなものだと思う」

 目の前に現れたチャンスを、自分で「意味あるもの」に育ててきた。そのバトンを今、渡そうとしている。

 =文中敬称略(加茂川雅仁)

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