あの日、何を報じたか1945/10/27【闇に消ゆ軍需品 被服三十万梱のほか麦・缶詰類 終戦どさくさに醜態 熊本の現地部隊】西日本新聞の紙面から

西日本新聞 福間 慎一

 〈終戦直後の食糧、被服など軍需品の処分問題をめぐり熊本県下にも種々の怪聞が伝えられては司令部宿舎、県復員軍人職業補導所などにも疑惑の目が集中されるにいたったので熊本師団管区参謀部では二十五日つぎのごとく真相を発表した〉

 役所、警察、軍、鉄道など戦時中にたたえられ続けた存在への反発が、体制の変化と生活の窮乏の中で強まっていたことがうかがえる。記事は、軍関係者たちがいかに軍用品を私物化していたのか、具体的な物資の種類や量とともに克明に書いている。

 〈缶詰五千七百二十個、大豆、小麦、燕麦八百二十三俵、被服三十万梱、釘二千樽が大量に盗まれ、ある日は行方不明となっている驚くべき事実が明らかにされ、終戦の混乱に統制なき現地部隊の姿が暴露されている〉

 なぜこうなったのか。記事によると、軍需品は福岡と熊本の県庁や熊本県内市町村に分散して保管するよう依頼されていたが、終戦の混乱が収まりかけたころには、上記の軍需物資が行方知れずになっていたという。

 記事はさらに失われた物資に触れているが、多彩な食糧が軍需品として保管されていたことが伺え興味深い。

 〈その一例としては熊本、高瀬、山鹿、宇都、出水、三船、綱田などに保管した牛肉の缶詰一万六千六百三十三個のうち三千個が行方不明となり、鯖缶詰一千五百個、貝の缶詰五百三十個、牛肉と野菜の缶詰六百九十個、水飴二百個、特殊糧秣(せんべい)一千四百四十個、粉末味噌五百五十三個、大豆八十四キロ入り三百二十俵、小麦百キロ入り二百五十三俵、燕麦四十キロ入り二百五十俵などが完全に盗み出されていた〉

 容疑者についてはまだ捜査中で、師団管区自体による持ち出しについては〈断じてない〉と記事は否定している。

 物資の列挙はまだまだ続く。

 〈被服の場合は全体の七十八パーセントに相当する三十万梱が姿を消し、土木建築資材でも三和、大津付近に保管した釘二千樽が盗まれた。菊地ではアルコール入りのドラム缶に穴をあけ側で煙草を喫んで爆死したものがあった〉

 終戦直前の紙面は植物の茎の粉末やバッタ、カエルを「決戦食」として市民や読者に紹介していた状況とは、あまりに大きな落差。この記事に読者は何を感じただろうか。

 師団管区に残っていた物資は、年末までに熊本県に引き渡され、罹災者に公平に配給する、と記事は締めくくられている。残っていた物資は次の通り、まだまだたくさんあった。

 〈米五万七千百十八俵、缶詰三千七百六十七個、粉味噌七百八十六個、粉醤油四千百九十四個、鰹節五十本入り七個、冬ズボン二万六千八百四十七梱などその他で、食料品被服類各七十種類程度〉 (福間慎一)

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 〈〉の部分は当時の記事から引用。できるだけ原文のまま掲載。

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