あの日、何を報じたか1945/10/28【憤死して満二年 偲ぶ・あの日の中野正剛氏】西日本新聞の紙面から

西日本新聞 福間 慎一

 〈故中野正剛氏が終始一貫、東条の軍門に下らず、遂に自ら命を絶って五十七年の多彩の生涯に終止符を打った真相は先に故人の同志三田村武夫代議士らによって明らかにされたが、(中略)東条軍閥の暴虐に満腔の憤怒を投げつつ自らの命に最後の断を下してから満二年、「無量院釋正剛居士」の法要は二十七日、東京多摩川の故人遺族の新居で知己同志多数参会、おごそかに執行された〉

 ジャーナリストで政治家の中野正剛は福岡市出身。戦時下の新聞統制で西日本新聞となる九州日報の社長も務めた。東条英機首相と激しく対立し1943年に「戦時宰相論」を発表。倒閣を企図したとして逮捕され、同年10月27日、自ら命を絶った。

 訃報は43年10月27日夕刊1面に掲載されているが、記事は短く淡々としている。同日の朝刊1面トップは〈東条首相、完勝方策を宣明〉。日々国威発揚の報道がなされる中、紙面は中野氏を大きく取り上げてはいない。それから2年後の45年秋、日本は敗戦し東条英機元首相も連合軍によって逮捕の命令が出されていた。

 この日の記事は、中野が倒れた時の様子を振り返りながらつづられている。

 〈議会を武装解除し、国民の耳目を閉ざして、国を憂うる草莽の至情を軍靴をもって踏みにじり、果ては牢獄と死へ追い込んだ軍閥とそれに追随せる一連の戦争犯罪者たちが相次いで連合国の牢獄に引かれ、あるいは自殺し、あるいは自殺し損ねて国民の嘲笑を買っている。祖国の現状を、秋風哭く多磨霊園に眠る故人の霊はいかに見ているであろうか〉

 政府が報道機関を統制した戦時中。記事は中野氏の死去に際し〈当局の弾圧は故人の霊にまでも干渉し、弔問客の氏名をいちいち警視庁に報告させ、地方からの弔問客は駅で待ち伏せ、そのまま立ち戻らせるなどの暴挙をあえてした〉。

 本紙を含めたメディアも政府の方針に沿った報道を展開した。この日の記事は、大政翼賛会総務などを務め、中野氏とは異なる立場の政治家だった永井柳太郎が弔問の席で聞いた言葉が紹介されている。

 〈某紙の記者が「政敵中野正剛について」の感想を求めに来たので、(中略)同君を失ったことは実に国家的な大損失だと語った。ところがその記者曰く「折角のお話ですが中野氏の死を惜しんだり誉めたりすることは書けませんのでそのつもりで」〉と告げられたという。永井はその記者を叱り飛ばした、と記事は書いている。

 法要に際し、記者は中野正剛氏の四男で、当時24歳の早大学生だった息子の泰雄氏にも話を聞いている。

 〈父は僕らの教育や将来については別に何もやかましく言うようなことはありませんでした。ただ普段から「各自の能力に応じたことをやれ、弱い人間になるな」とよく言ったものでした。僕は大学院に残って社会問題を研究したいと思っています〉

 泰雄氏はその言葉通り、社会思想史研究の道を歩み、亜細亜大で教壇に立ちながら、父に関するものを含め多くの著作を残した。2009年に亡くなった。

 中野正剛氏の歩みを残す碑は終戦10年後の1955年に福岡市の今川(中央区)に建立された。その後銅像も立てられ、その姿を今に伝えている。 (福間慎一)

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 〈〉の部分は当時の記事から引用。できるだけ原文のまま掲載。

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