あの日、何を報じたか1945/10/29【“最善を尽くそう” 大場所間近に双葉山上京】西日本新聞の紙面から

西日本新聞 福間 慎一

 〈十一月十六日から国技館で開催予定の東京本場所を間近に控え、太宰府の双葉道場で練習を続けていた横綱双葉山は秋晴れの二十八日午前十一時、席田発終戦連絡機で東京に向かった〉

 現在の大分県宇佐市出身、69連勝の記録を誇り「不世出の大横綱」と呼ばれた双葉山。戦時中も続いていた大相撲は、終戦後最初の場所を11月に開催することになっていた。

 当時の双葉山の体格は〈食糧の関係で体重がぐっと減ったとはいえ〉と記されているが、その数字は〈三十三貫五尺八寸五分〉(約124キロ、約177センチ)だった。日本相撲協会によると、今年の秋場所前の幕内力士(42人)の平均身長は184・0センチ、体重156・9キロ。それに比べると、かなり小柄ではある。

 ただ、旧厚生省の栄養調査(1948年)によると、20歳男性282人の平均身長は161・2センチ、平均体重は55キロ。双葉山はやはり群を抜いた大きさだった。

 搭乗した双葉山に、機長は驚いている。

 〈巨体を国民服に包んで飛行場姿を現すと、旅客機の機長フレデリック中尉が「日本人には珍しい大柄の人は誰だ」ときくので「あれは日本の国技相撲のナンバーワン双葉山」と紹介するとフレデリック中尉は満足そうに、やあと手を差し伸べむっつりやの双葉山もにっこり笑って大きい手を差し伸べて握手を交わし、喜ばしい日米親善の一瞬を描き出した〉

 ほのぼのとした記事は、双葉山の言葉に続く。

 〈十一月五日番付を発表し十六日開幕と言って来たのでその打ち合わせのため上京する。国技館は現在修繕前だし戦前のような豪華な相撲はできないだろう。米国の進駐軍を迎え日本の国技の名誉のため最善を尽くしてやりたい〉

 こう語った双葉山だが、続く言葉には元気がない。

 〈みんな練習不足だろうが正直なところ自分もあまり身体の調子はよくない〉

 国技館の修繕が終わっていないため晴天の10日間という日程だった秋場所。11月6日、本紙朝刊に掲載された番付では、双葉山は西の張り出し横綱だった。しかし開幕の16日付にあったのは〈双葉休場〉の見出し。〈双葉山の休場は稽古不足による体力低下が主因〉とある。

 一方記事は、仕切り時間の短縮や、取り組みの変化を狙って土俵の半径を15尺から16尺に広げるという改革に対して、力士会が反対していることも紹介している。

 そして11月27日付、羽黒山の優勝を伝える記事の次に続く記事の見出しは〈双葉山引退〉だった。

 〈引退決意の理由は体力的に現役横綱の名誉と権威を維持する自信がなくなったというにあるが、直接の動機は土俵拡張問題を巡って純正相撲の擁護を主張する彼と興行第一主義を協調する協会側との間に意見を異にしたため〉と伝えている。

 双葉山はその後、太宰府天満宮に近い場所に開いていた双葉山道場で後進の指導に努めた。道場は48年に福岡県に売却され、高齢者養護施設に。現在は社会福祉法人が運営する養護老人ホーム「双葉」があり、その名残をとどめている。 (福間慎一)

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 〈〉の部分は当時の記事から引用。できるだけ原文のまま掲載。

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