あの日、何を報じたか1945/10/31【学園と食糧 授業お昼で切り上げ 午後は全校あげて増産に挺身】西日本新聞の紙面から

西日本新聞 福間 慎一

 〈食糧事情逼迫はついに学校における正常な授業継続放棄という事態に立ち至り、既に授業の午前中切り上げ、一週五日制の実施、体操の中止などの臨時措置を行った学校すらあるが、今や大学から国民学校に至るまで、ほとんど例外なしに「空腹と授業」に頭を悩ましている。また某国民学校長は学童の弁当の紛失事件が続出するので調べたところ、弁当を持参することができない児童の仕業であることが分かり、しかもこのような家庭が存外多くある実情を知り、盗んだ生徒を責めるには余り自分の良心が苦しく、ついにこのような食糧事情下では教育責任を全うし得ないとして辞職したとも伝えられる〉

 8月15日の敗戦で政治や社会の価値観が180度変わった後も、全く変わらなかったのが食糧問題だった。そして、その影響を最も受けたのが教育現場だったと31日付の記事は伝えている。

 当時は運動会シーズン真っ盛り。だが、29日付「読者の声」欄では、ペンネーム「福岡・一父兄」氏の声を掲載している。〈食糧不足で栄養の足らない子どもには急激に精力を消耗するランニングなど、この際やらせない方がよくはないか。(中略)今日の配給状況で、昔そのままの運動会の復活はどうかと考える。静かな遊戯程度にとどめてほしい〉

 食糧の窮迫と学校教育に関する文部省当局の見解は次のようなものだった。

 〈一日何時間授業し一年の授業日数は何日とそれぞれ学校の法規によって定められているが、法規を固執しなくてもいいような臨時措置を施す必要がある。学生に対する増配も不可能だし、払い下げ米も学生だけというわけにはゆかず、結局学校の自給態勢を樹(た)てるように導くより手がない〉。そうして授業日数を削り、農作業に充てることを勧めている。

 記事のすぐ近くに広告がある。兵庫県の機械製作所による〈粉砕機と製粉機〉の売り文句は〈世ヲ挙ゲテ粉化粉食時代来ル!〉。粉食の重要性は戦時中から何も変わっていなかった。

 記事の見出しには、戦時中に多用された「挺身」(身を投げ出して困難にあたること)の言葉。米英は既に敵ではなかったが、「戦争に勝つため」という精神的な支えがなくなった“自由”な時代に、食糧難はむしろより厳しいものだったかもしれない。

   ◆    ◆

 75年前の夏、太平洋戦争終結前後の日々を西日本新聞はどう伝えたのか。1945年6月1日付の紙面から連日、世相や人々の暮らしを訪ねてきた連載「あの日、何を報じたか」は、153回目の45年10月31日付紙面で終了します。

 連載は終わりますが、戦後の混乱はますます深まり、一方で「新しい日本」の建設も徐々に進みます。

 11月1日付から、1面の上欄外の紙面表記は〈THE NISHINIPPON SHIMBUN〉とアルファベット表記に変わりました。同4日は福岡市・天神に新たな商店街建設が始まることを報道。現在の新天町商店街の息吹でした。

 45年の大みそかの紙面には、この1年間の紙面見出しを組み合わせた大きなコラージュとともに〈さあ、心機一転 左様(さよう)なら、苦難の昭和二十年〉の見出しで一年間を振り返っています。その記事はこう締めくくられています。

 〈われわれはこの中から起ち上がってゆかねばならない。新しき年を迎え心機一転、この苦難を乗り越えるのだ。既に寒風うなる荒野に開墾の鍬(くわ)が打ち込まれ、地下三千尺の炭脈に若い群衆が挑んでいる。さらば悪夢の昭和二十年よ去れ。明日こそ新しき年、新しき日本はこの日から生まれるのだ〉 (福間慎一)

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 〈〉の部分は当時の記事から引用。できるだけ原文のまま掲載。

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