「本土決戦」決死の防衛網は今 米軍上陸想定、鹿児島に残る地下壕や要塞跡

西日本新聞 一面社会面 金沢 皓介

 もし、1945年8月15日に終戦を迎えていなければ、この年の11月1日、九州に米軍が上陸し、地上戦の舞台になっていた可能性があった。連合国軍は鹿児島県の志布志湾、吹上浜、宮崎県の宮崎海岸の3方面から攻め込み、南九州地域を制圧する「オリンピック作戦」を企図していた。日本軍も本土決戦を見越して、大量の部隊を配置。衝突していれば、多くの住民が巻き込まれた沖縄のように、未曽有の人的、物的被害に見舞われただろう。

 湾は太平洋につながり、港湾都市として栄えてきた鹿児島県志布志市。海岸沿いの断崖には44年9月ごろから、日本軍による本土防衛のため、全長16キロに及ぶ地下壕(ごう)が掘られた。旧志布志町誌によると、軍幹部は地下壕を「日本一」「全軍の模範」と評価し、45年7月時点で80~90%完成していた。砲座や弾薬集積所など戦闘施設のほか、休憩所や井戸、炊事場もあり、生活の場として長期戦にも耐えられるようにしていた。

 市中心部を流れる前川の河口、「権現島」にある地下壕もその一つ。かつては島だったが、港を造るための埋め立てで今は陸続きになっている。木が生い茂る小山の前、看板には「権現島水際陣地跡入口」とある。日本軍が掘った地下壕の入り口は、木戸で閉ざされていた。

 地元の郷土史家、米元史郎さん(69)の案内で中へ入った。暗闇の壕内はひんやりしており、人1人が行き交えるくらいの幅だ。市内にある他の地下壕は崩落の危険があるとして、ブロック塀などで封鎖されている。市も全容を調査したことはなく、独立した構造の権現島の陣地のみ2007年に市指定史跡となった。

 懐中電灯を頼りに時折腰をかがめながら40メートルほど行くと細長い横穴があり、のぞくと対岸が見えた。「米軍が上陸してくれば、機関銃で狙い撃ちするつもりだったのでしょう」。米元さんは言う。地下壕は島内で完結しており、米軍が攻め寄せれば逃れられない。見える範囲で上陸を食い止めたとしても、先に待ち受けているのは「死」だった。

   ◇   ◇

 日本軍は、南九州の上陸予想地域の中で「特に重視」(戦史叢書=そうしょ)した鹿児島県志布志湾周辺に地下壕や砲台などを整備した。海辺の松林の中にはコンクリート製の小型陣地、トーチカが今も残る。戦後75年を経て風化が進む、本土決戦準備の跡を歩いた。

住民総出の九州防衛

 目前に迫りつつあった本土決戦を見据え、鹿児島県志布志湾周辺では1944年夏以降、防衛陣地の構築が進んだ。作業には兵士だけでなく住民も駆り出された。旧制中学に通っていた志布志市の田中保さん(89)は45年6月、沖合約4キロの枇榔(びろう)島で陣地造りを手伝った。島に生い茂る林に塹壕(ざんごう)を掘って出た土を運ぶため、1週間ほど島に泊まり、同級生と交代で作業した。

 詳細は知らされず「砲台を造ることくらいしか分からなかった」。当時は毎日のように空襲警報が鳴り響き、授業はたびたび中断。浜辺に掘った縦穴に逃げ込んだ。木製の銃を使い、ほふく前進の訓練もした。海軍士官学校に進んだ兄に憧れ、「米軍が攻めてきたら自分たちが迎え撃つ」。そんな覚悟を持っていた。

 志布志湾沿いを南へ。鹿児島県内之浦町(現肝付町)の要塞(ようさい)跡を訪れた。半島の海蔵(かいぞう)集落には砲台や弾薬庫が造られた。戦略性の高さから「志布志湾岸で最大の要塞」だったと案内板は伝えていた。

 ひときわ大きい二連式のトーチカは幅約7・6メートル、高さ約3メートル、奥行き約4メートルある。地面近くの細い隙間は、立てこもって迎え撃つための銃眼だ。今は背の高い草木が生い茂って視界をふさいでいるが、当時は上陸する米兵がいれば見下ろせた。トーチカの先の草むらには通路のような壕が「右へ左へまるで迷路のように入り組んでいた」と元内之浦町職員の永野昌秀さん(81)が教えてくれた。深い草に覆われた道と、朽ち始めた説明板に、長い時の経過を感じた。

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 <日本軍には随分ひどい部隊があった、四十歳を超えた兵隊たちは何といっても体力において十分でなかったし銃剣や小銃をもたぬ中隊もあった これらが上陸米兵とどうして戦ふのかとさへ思った>

 <民の自衛乃至軍への協力態勢も鉄壁にかためられ万一の場合は婦女子も竹槍(やり)を執って自衛に当る訓練と覚悟ができてゐた>

 45年10月11、12日の本紙は、オリンピック作戦に対する当時の防衛状況をこう報じている。劣勢の日本軍が、住民を巻き込んだ地上戦を念頭に置いていたことがうかがえる。

 地上戦の足音は確かに刻一刻と近づいていた。オリンピック作戦は、事前に鉄道の破壊や北部と南部を結ぶ道路の攻撃などを想定しており、実際に沖縄を占領した米軍は九州の各都市や交通施設への攻撃を激化させていた。「上陸日が近づけば、志布志湾沿岸も艦砲射撃による攻撃が加えられただろう」と空襲の歴史に詳しい工藤洋三・元徳山高専教授は指摘する。

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 米軍が攻め込んでくる予感はあったという田中さんも、オリンピック作戦について具体的に知ったのは、ほんの数年前のこと。「作戦が実行されれば、志布志のまちはなくなっていた」と恐ろしくなったという。

 作戦では米軍による化学兵器の使用も想定された。志布志市内に拠点を置いた陸軍第86師団の大尉だった前田伊八さん=佐賀県鹿島市=は著書に、45年1~3月に陸軍習志野学校で毒ガス対策の教育を受けたと記した。広島、長崎に続き、原爆が使われた可能性もあっただろう。

 戦後七十余年を経て、壮大な作戦を知った田中さんはあらためて思う。「大量の武器を持った米軍に竹やりで立ち向かおうとしていた。それで勝とうとしてたんだから無謀ですよ」

【オリンピック作戦】1945年6月23日に沖縄戦が終結し、日本本土への侵攻を目指した連合国軍による南九州への上陸作戦。同年11月1日に鹿児島県・大隅半島の志布志湾、薩摩半島の吹上浜、宮崎県の宮崎海岸に同時に上陸する計画だった。米軍は鹿児島県・川内と宮崎県・都農を結んだ線までの進出を想定し、南九州に関東地方への爆撃拠点となる航空基地を整備しようとしていた。

 当時のホワイトハウス会議議事録によると、米軍は兵力約76万人の投入を計画。九州の日本軍の兵力を約35万人と見込んでいた。一方、日本軍も本土決戦を念頭に九州に多くの部隊を配置し、戦史叢書には「急速に増強され、総兵員は約90万に達した」とある。

 46年3月1日に関東地区に上陸し東京を占領する「コロネット作戦」も計画されており、二つの作戦は合わせて「ダウンフォール作戦」と呼ばれる。作戦実行前の45年8月、日本はポツダム宣言を受諾、無条件降伏した。

(金沢皓介)

 

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