パイレーツ幻の監督 塩田芳久

西日本新聞 オピニオン面 塩田 芳久

 耳を疑った。「私の父、大塚正男は西日本パイレーツの2代目監督でした」。西日本新聞社OB、大塚勝一さん(89)=福岡市早良区=がそう告げた。確かパイレーツ2代目監督は“名将”三原脩のはず。その前に1人いたのか。

 西日本パイレーツは1950年に1年だけ存在したセ・リーグの球団だ。弊社が所有し本拠地は福岡だった。初代監督は東京六大学野球で活躍した小島利男。51年1月に巨人総監督の三原とバトンタッチした。間もなくパイレーツは西鉄クリッパースと合併したため、三原が新生西鉄ライオズの監督となった-それが「史実」だと思っていた。

 「小さくですが新聞に載りましたよ」。勝一さんの助言を受け当時の紙面を探すと、あった。50年12月24日朝刊に「西日本監督に大塚氏」。顔写真が付いた7行の記事だ。小島の勇退と正男さんの就任を伝えていた。

 勝一さんによると、正男さんは編集局運動部長だったが、パイレーツ誕生で球団に出向した。1年間チームに帯同し選手と苦楽を共にした。8球団中6位で終わったシーズンオフ、次の監督が決まるまで球団職員が「つなぎ役」を務めたのだろう。

 つなぎ役とはいえ監督は監督。背番号くらいあったはずだ。日本野球機構(NPB)に照会した。すると「大塚正男という人が監督に登録されたことはない」との回答。「現在のような厳格な登録制度はありませんが、正式な形の監督という立場ではなかったのではないでしょうか」

 勝一さんもこう推測する。正男さんと三原は早大出身。正男さんは陸上部で活躍した。同窓の正男さんが三原のパイレーツ監督就任の交渉役として監督となったのではないか。チームの指揮は最初から想定されていない背広姿の監督ではなかったか、と。

 パイレーツ監督の三原が後にライオンズ黄金期を築くことは広く知られる。しかし正男さんが三原の監督就任直後に心臓病で倒れ、54年3月5日に53歳で亡くなったことを知る人は少ない。「ライオンズ初優勝の年でしたが、見届けることはできませんでした」と勝一さんは悔やむ。“監督”時代は東京出張が続き、家に帰れなかったという正男さん。福岡のプロ野球に殉じたと言っても過言ではない。

 同年3月7日、三原と元パイレーツの選手たちが大塚家を弔問した記事を見つけた。巨人に移籍した選手も駆け付けて故人をしのんだ。パイレーツ2代目監督への敬意が伝わるエピソードに、70年たった今も心が震える。 (くらし文化部編集委員)

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