激変の中で「ぶれなかった」ものは 1945年、夏の153日間をたどって

西日本新聞 オピニオン面 福間 慎一

 戦争が終わった1945年の6月から10月まで、当時の西日本新聞の紙面を毎日訪ねる連載に本紙ウェブサイトで取り組んだ。タイトルは「あの日、何を報じたか」。印刷のかすれた紙面データと格闘したこの5カ月、8月15日を境に百八十度変わる紙面の風景に多くのことを考えさせられた。

 当時、物資不足で紙面は表裏2ページしかなかった。それでも、掲載された記事は多かった。

 現在の紙面は1ページに12字×71行×12段で約1万字分の容量。75年前はおおむね15字×90行×16段で約2万1千字。広告欄も狭く、表裏で計50本前後の記事が入ることもあった。

 連載ではこの中から、大きな戦局や政治の動きではなく、なるべく九州の話題や市民生活に近い記事を選び、当時の人々の暮らしや社会の動きなどを追った。10月31日付の153回目で終了する。

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 戦時中の大本営発表や、戦意高揚のための報道統制はよく知られている。西日本新聞も交戦相手を「米鬼」と呼び、敵機を「醜翼」と書いた。消火作業は「防空戦」で、農作業も鉄道輸送もひたすら「敢闘」「挺身(ていしん)」「特攻」と伝えた。

 紙面の中に頻繁に出てくる「明朗」という言葉が重たかった。44年10月に閣議決定された「決戦与論指導方策要綱」の一つには「決戦的戦時生活下ニ於ケル気分ノ明朗化」が挙げられていた。メディアはその意をくみ、多用した。福岡大空襲の3日後、6月22日付の紙面では、焼け出された人の「家に住んでいると空襲が心配だったが、あっさりしてよいものですよ」という言葉を伝えた。本当の思いだったかは別にして。

 「乗るなデマ」という見出しもしばしば登場した。記事は「配給がなくなる」「空襲がある」などのうわさを事実無根として強く戒めた。デマと断じられたものはすべて、住民が募らせた不安や痛みだった。

 8月10日付。9日の長崎原爆の第一報を本紙は「長崎市に新型爆弾 被害は僅少の見込み」の見出しで報じた。原爆を筆頭に空襲の被害を「僅少」と書き続けた記事そのものが世論操作のための宣伝だった。

 個人が情報を広く発信できる現代とは異なり、伝達手段の大部分を占める新聞が連日「敢闘」「特攻」を刷り込む日々。メディアは戦争の意思継続に大きく貢献してしまった。

 また、戦中の記事は空襲や街の人の様子を伝える際に「○○工場」「福岡市某町」などと場所を伏せていた。機密保持のためでもあるが、具体性が薄まった記事は九州や福岡の話なのに、どこか現実味がなかった。

 「福岡市内」ではなく「福岡市・天神」と書く、時期をぼかさず日付を記す-。その積み重ねは、地域の歩みを肉付けする大事な営みだと再認識した。

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 8月15日の終戦後、紙面は激変した。16日の紙面以降、写真に「検閲済」の文字はなくなった。敗戦の絶望と生活再建への希望、治安の悪化や文化の再興。「勝つために」一辺倒だった紙面は多彩になった。

 軍の報道統制に代わり、9月以降は進駐軍批判を禁じる連合国軍総司令部(GHQ)の「プレスコード」に基づいた報道が展開された。8月後半の段階では原爆の惨禍を「暴虐」と表現したが、そうした書き方は見掛けなくなった。

 戦時中は尊敬の対象だった軍人や駅員らによる物資の窃取、行政職員の怠慢などは盛んに報じられた。一方で連合軍将校と住民の交流や美談がしばしば掲載される紙面は、戦時中よりも巧妙に管理されていたと言えるかもしれない。

 8月31日付には、東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)首相の「一億総ざんげ」の言葉を受け、農家や主婦らに「ざんげ」を聞く特集があった。その前文に「言論報道機関もまた多くの反省すべきものがあるが」とある。ただ、この記事ではそれ以上は踏み込んでいない。

 「上から目線」の記事は苦しかった。冬に向けた燃料備蓄状況を伝えた10月8日付の記事は「前年は勝つために寒さに我慢したが、今年は『再建日本』のために我慢」と書いた。

 そんな中、一貫していたものが一つある。それは「空腹」だった。街に暮らす人々の最優先の関心は、食べ物の確保。配給物資を告知する短信のスタイルは終戦後も同じ。ヤミ市を描いた10月10日付の記事は「下手な統制の枠を外せば、一応物は相当に出回るという一つの見本的存在ではある」と書き、まずは食料流通を訴えた。困り事や疑問が出発点になった記事には、ぶれがないと感じた。

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 連載はウェブサイトで展開した。インターネットでニュースを読む人たちにも「戦争」について伝えたかったからだ。紙面と異なり、ウェブでは記事が閲覧された回数が分かる。実はこの連載の閲覧数は思っていたよりもずっと少なく、自分の中で課題として残った。

 戦争体験を継承する鍵として最近よく言われるのは「身近なこと」と感じてもらう仕掛けだ。

 今夏、原爆投下当時を生きた方々の日記を現代語に直し、会員制交流サイト(SNS)で投稿を続ける放送局の企画が反響を呼んだ。一方で、断片的に伝わる投稿の文言の一部は差別的だとして批判も起きた。

 75年前は今の暮らしと「地続き」だ。当時を知る人が減る中でその感覚が失われつつあるにもかかわらず、深い傷を残し続ける戦争をどう語り継げばいいのか。答えはなかなか見つからない。

 近年は「なぜ語り継がないといけないのか」とさえ言われる。人の命が最も軽んじられた時代に触れることで、人の痛みに思いをはせる想像力を持つことができるからだと思っている。

 「あの日、何を報じたか」を意識しながら「今、どう報じるか」を考えていきたい。(福間慎一)

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