「田川は第二の故郷」車いすフェンシング代表が挑む世界の頂

西日本新聞 筑豊版 吉川 文敬

 バイトからの帰りだった。買ったばかりのバイクを運転中に転倒した。16歳、左足を失った。車いすフェンシング日本代表と田川市との不思議な縁は、ここから始まる。

    ◇   ◇

 福岡市出身。小学2年で剣道を始めた。実力が認められ推薦で市内の私立高に入学したが、部内の上下関係になじめず自主退学。将来への希望を失い自暴自棄になっていた。そんな時に起きた事故だった。

 10代後半で思い出すのは、病室のベッドから外を眺める独りぼっちの自分の姿。恋愛やスポーツに熱中する同世代がまぶしかった。事故から1年半後に退院。親の勧めで入学した通信制高校では年数回の登校が提携先の福智高(田川市)だった。閉じこもりがちな時期だったが、田川は特別だった。同世代との楽しく温かな思い出ばかり。県内の私立大にも入れた。リハビリの甲斐もあり、義足で普通に歩くこともできるようになった。でも何かが満たされなかった。

    ◇   ◇

 大学卒業後、義足を作る義肢装具士の専門学校に入る。毎日10時間近く勉強や実習に明け暮れたが、違和感が拭えなかった。「本当にやりたいことなのか」。2013年冬。当時から世界で活躍し、後に16年リオデジャネイロパラリンピック男子走り幅跳びで銀メダルを獲得する山本篤さんの講演で質問した。「何をしたいのか分からない」。答えは明快だった。「今しかできないことをやろう」

 東京五輪・パラリンピックの開催が決まっていた。20代後半、世界の舞台を目指すには遅すぎるが、スポーツで自分の力を試したい。剣道は続けていた。車いすフェンシングしかない。京都にある協会に連絡し、我流で練習を始めた。福岡で筋力強化など基礎トレーニングを行いながら、1カ月に1度、夜行バスで京都へ行き、練習する生活を2年間続けた。

 2016年、大手ネット企業の契約社員となり、練習に打ち込める環境が整った。国内大会で優勝するようになり、海外でも上位に食い込むようになった。

    ◇   ◇

 名コーチとの出会いが進化を加速させる。08年北京五輪で太田雄貴選手を銀メダルに導いたオレグ・マツェイチュクさん(48)。現在も男子代表コーチで憧れの存在だ。昨年末、マツェイチュクさんが体を壊し入院した。知人のつてで見舞ったことをきっかけに個人的関係を築いた。

 今年に入り、新型コロナウイルスの影響で思うように練習ができない日々が続いた。意を決して相談すると、マツェイチュクさんは無償での指導を受け入れてくれた。自宅駐車場でイスを並べての練習。「攻撃も防御も必然性が大事なんだ」。フェンシングは頭脳戦。相手の2手3手先を読み、今すべきプレーを論理的に考える癖がついてきた。

 成長は周囲も認める。車いすフェンシング日本代表の山本迪也コーチ(32)は「この半年で日本選手の誰よりも伸びた」と舌を巻く。

 海外勢は身長が2メートル近い選手が多い。身体的不利は瞬発力と洞察力で補うしかない。剣道で培ったスピードには自信がある。相手を翻弄(ほんろう)する駆け引きを鍛えればメダルも見えてくる。

 田川市はドイツとベラルーシの車いすフェンシングチームのホストタウン。合宿や試合で訪れることも多くなった。一方、18年に市であった国際大会では声援にもかかわらず成績は振るわなかった。「田川は第二の故郷。期待を裏切りたくない」。東京パラリンピックは来夏に延期となった。天が与えた好機と捉え、さらなる高みを目指す。 (吉川文敬)

福岡県の天気予報

PR

福岡 アクセスランキング

PR

注目のテーマ