「生き残った者の責任」 終戦直後の惨事伝える 二又トンネル爆発

西日本新聞 社会面 吉川 文敬

 国鉄田川線(現JR日田彦山線)の二又トンネル(福岡県添田町)内に旧日本軍が秘匿していた火薬532トンが大爆発を起こし、住民ら296人が死傷した惨事から12日、75年となる。父と姉を失い、自らも重傷を負った元町教育長の佐々木盛弘さん(86)は、近く予定される鉄路廃止や生存者の減少による風化に危機感を募らせる。「当時を知る人間は数人となり、語れる時間も少ない」と、つらい体験と平和への願いを語り続ける。

 1945年11月12日午後。当時小学生だった佐々木さんが帰宅すると、自宅から約100メートル離れたトンネルで爆発音や地鳴りが続いていた。家には不安げな姉美乃留さん=当時(20)。父の深さん=当時(54)=は米軍の命令で火薬の焼却作業に駆り出されていた。父を心配した佐々木さんは姉の制止を振り切り、トンネルへ向かう。

 トンネルから断続的に数十メートルの火炎が噴き出し、大人たちは避難を始めていた。深さんが佐々木さんを見つけ、共に線路脇に避難した瞬間だった。すさまじい地響きとともに大爆発が起こった。佐々木さんに覆いかぶさってかばった父は「家に帰りなさい」と繰り返しながら息を引き取った。死因は全身裂傷。美乃留さんも自宅で大量の土砂に埋もれて亡くなっていた。

 その後の記憶は断片的だ。線路をはってたどり着いた彦山駅は、顔見知りの遺体と負傷者で埋め尽くされていた。同級生2人を含む児童29人も犠牲になった。数カ月間も苦しんだ末に亡くなった人、「自分だけが助かった」と心の傷を抱えた人。終戦から3カ月、戦争の傷から立ち上がろうとしていた人々を突然襲った悲劇だった。

 佐々木さんは半世紀以上、悲惨な記憶にふたをしてきたが、生存者が少なくなった20年ほど前から、地元の学校などで事故について語り始めた。惨事の原因となった戦争と事故の理不尽さを心で感じてほしいと、自身が描いた絵を使う。

 現場の線路は3年後にもバス高速輸送システム(BRT)の専用道となって姿を消す。体験者もごくわずかとなり、風化は避けようがないのかもしれない。だからこそ、佐々木さんは「生き残った者として、命ある限り語り継ぎたい」との思いを強くする。 (吉川文敬)

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