画一化する風景で際立つ「オール手作り」 ”もしもし”の由来は…

西日本新聞 もっと九州面 小川 祥平

◆ラーメン のれんのヒストリー 替え玉(11)餃子会館(佐賀県武雄市)

 佐賀県武雄市の国道34号線。交通量の多い幹線道路から一筋入ったところに「餃子(ぎょうざ)会館」はのれんを掲げる。3年前に市中心街から移転。真新しい建物には、二つの看板メニューが記されていた。その名も「ホワイト餃子」と「もしもしラーメン」。ずいぶんと変わったネーミングだが、地元ではソウルフードとして長年愛されている。

 「もともとはラーメン専門。屋号は精養軒でした」

 女将(おかみ)の野田千代子さん(64)はそう話す。創業したのは義父、辰一さん(故人)。1972年、突然「商売をやる」と脱サラしたらしい。59年創業の佐賀市の老舗「精養軒」(2015年閉店)で味を習得。屋号ももらって武雄温泉街近くに店を構えた。

 とはいえ、その名はあまり根付かなかったようだ。間口一間半の小さな店は、ほとんどが電話注文の出前客。加えて隣には電電公社(現NTT)があった。「だから『もしもしラーメン』なんです」と千代子さん。人気となるにつれて通り名の方が定着し、メニューも書き換えた。

 <もしもし、もしもしラーメンですか? もしもしラーメンください>

 そんな電話で客と笑い合ったのはいい思い出だ。

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 「ホワイト餃子」を始めたのは1975年のこと。

 ある日、辰一さんは千葉県野田市発祥の一風変わった餃子を雑誌で見つけた。俵のような形。たっぷりの油で揚げるように焼かれた大ぶりの品。中国人の白さんから教わったことから「ホワイト餃子」と名付けられ、関東を中心に人気を集めていた。

 思い立ったら行動は早い。辰一さんは、長男で千代子さんの夫、一成さん(67)を野田市の「ホワイト餃子」本店に送り込んだ。半年ほど住み込みで働いた一成さんは、その味を武雄に持ち帰った。

 その際、手狭な店を市役所近くに移している。スレート造りの平屋での再スタート。同じ頃に市の文化会館が完成したことから「文化会館みたいに大きくなれ」。そんな願望を込め、屋号は「餃子会館」とした。

 「でも餃子は全く売れなくて…」。客は食べたことのない味に戸惑ったようだ。「1時間で50個食べたら無料」といったさまざまなイベントを仕掛けた。その甲斐あってか、数年かけてラーメンと並ぶ看板メニューに。85年には店舗兼住居ビルを建てた。

 10年ほど前、私が初めてこのビルを訪れた時に驚いたことがあった。有名人のサイン色紙の横に、地元の中高生たちの寄せ書き色紙が飾られていたのだ。地域を愛し、地域から愛される姿を象徴していた。

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 ここまで聞いて、看板メニューを両方頼まないわけにはいかない。

 まずは餃子。カリッと焼かれた皮をかみ込むと意外にもっちり。白菜、キャベツなどの野菜が詰まった餡(あん)はさくっとして相性がいい。ラーメンはさらりとした白濁スープ。パンチはない。ただ、しっかりした豚骨のだしが鼻の奥をくすぐってくる。この優しさに、しなやかな麺がまた合う。

 実は昔、佐賀市の「精養軒」のラーメンを食べたことがあるが、その一杯をほうふつとさせた。福岡の豚骨に慣れていると「薄い」とか「麺が柔い」とか言う向きもあるかもしれない。しかし、薄いのではなく滋味深いのであり、スープとなじむこの麺の柔らかさがいいのだ。

 冒頭で書いたように、2017年末に店は再度移転している。九州新幹線の西九州(長崎)ルートが敷地を通ることになり、ビルは取り壊しになった。今の店からは国道沿いの様子がうかがえた。ドラッグストアなどチェーン店が多く、どの地方都市にでもあるような風景に思えた。

 一方、目の前の看板メニュー。餃子の皮も餡も、ラーメンのスープも麺もすべて手作りにこだわる。地方が画一化していく時代だからこそ、「ここにしかない味」に引かれる。 (小川祥平)

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