消えたノモンハンの絵

西日本新聞 オピニオン面 上別府 保慶

 パリ画壇の寵児(ちょうじ)だった藤田嗣治は、ヒトラー・ドイツの戦車部隊がフランス国境を突破した1940年5月、妻と共に日本行きの船に乗った。パリ陥落の報はインド洋上で知った。

 危機一髪の帰国から間もない9月。アトリエを白髪の陸軍中将が訪れた。前年のノモンハン事件で敗北の責任を問われ、予備役に回された荻洲立兵(おぎすりっぺい)だった。

 ノモンハン事件は、当時の満州国とモンゴルの国境で日本軍とソ連軍が激突した紛争。ソ連側は快速のBT戦車を大量投入したが、日本の戦車は数が少なく砲撃力も弱いため、接近しなければ弾丸ははじかれた。日本の歩兵は火炎瓶を手に敵戦車へにじり寄った。

 実情は国民には伏せられた。戦後に慰霊祭が催された際に、新聞が犠牲者を1万8千人と報じたが、正確なところは今も不明だ。

 藤田を訪ねた荻洲は、戦死者の霊を慰める絵を依頼し、藤田がノモンハンを旅する手はずも整えた。

 藤田が描き上げた「哈爾哈河畔之(ハルハかはんの)戦闘」は41年7月の「聖戦美術展」に出品された。日本兵が着剣した小銃で敵の戦車に立ち向かう姿があった。実は絵はもう1枚あり、軍部がひた隠す負け戦が生々しく描かれていた。こちらは人前には出なかった。日動画廊社長の長谷川仁による貴重な目撃談が画集『画家たちの「戦争」』(新潮社)にある。

 「画面全体をおおうように赤黒い炎が燃えあがっている。その下には、日本兵の死骸が累々と横たわっている。ソ連軍の戦車が、その死骸の上を冷酷無残に踏みにじりながら通り抜けようとしているではないか」

 藤田は当惑する長谷川に「どうだ、傑作だろう」と言った。「今は君たちにはわからないだろうが、これから五十年も経(た)てばわかるときがある。この絵は、間違いなく博物館ものだよ」

 そうはならなかった。荻洲家に飾られたこの絵は終戦の混乱で失われたのだ。

 藤田は百余点の戦争画を描いた。43年の「アッツ島玉砕」は、日米の兵士がつかみ合い、銃剣で殺し合う暗い地獄絵だった。検閲役の陸軍将校はこれが士気高揚につながるのかと疑い、展覧会への出品はなかなか許可されなかった。

 同じく玉砕を描く45年の「サイパン島同胞臣節を全うす」には、崖に追い詰められた女性たちが身を投げる姿がある。こちらは展示されないまま終戦が来た。

 戦後の藤田は画家仲間から戦争協力を批判され「絵描きは絵だけ描いてください。仲間げんかをしないでください」と言い、パリへ去った。日本を恋しがったが二度と帰らなかった。

 福岡市美術館で開催中の藤田の展覧会に寄せて。同展に戦争画は、44年の「神兵の救出至る」が1点ある。 (特別編集委員・上別府保慶)

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